「一人の罪を、集団の罪にするな」──フランクリンが訴えた偏見を超える理性の力
「一人のインディアンが私に危害を加えたら、
インディアンすべてに復讐してもよいということになるのだろうか?」
1763年、ペンシルヴァニアで起きた先住民虐殺事件のあと、
ベンジャミン・フランクリンはこの問いを投げかけました。
これは、単なる道徳的非難ではなく、人間の理性への信頼と偏見への挑戦でした。
■集団への憎しみは「理性の敗北」
当時、白人開拓者たちの一部は、先住民による襲撃を理由に報復し、
罪のないインディアンの村々を焼き払い、老若男女を殺害していました。
それに対してフランクリンは、痛烈な論理で反論します。
「もし赤毛の男が私の家族を殺したからといって、
以後出会う赤毛の人間を皆殺しにしてよいことになるのだろうか?」
彼の言葉は冷静でありながら、深い怒りを孕んでいます。
フランクリンは、個人の行為を集団の特徴と結びつける思考を「愚かで非道」と断じました。
この構造は、現代にもそのまま当てはまります。
国籍・性別・宗教・人種・政治思想──
「一部の行動を見て、全体を決めつける」ことは、
理性を放棄した偏見の始まりなのです。
■人は「分類」したがる生き物
フランクリンが見抜いていたのは、人間の本能的な心理でした。
人は不安や恐怖を感じると、「敵と味方」に分けて安心しようとします。
しかし、その単純化こそが悲劇を生む。
彼は冷静にこう指摘します。
「白人にも異なる国籍や言語があるように、インディアンにも多様な部族が存在する。」
つまり、“他者を一色で塗りつぶすこと”が偏見の始まりだと。
多様性を理解せず、「あの人たちはこうだ」とひとまとめにすることが、
いかに暴力的で非理性的かをフランクリンは警告しています。
■怒りよりも「思考」で応える勇気
フランクリンの凄さは、怒りに飲まれなかったことです。
当時の世論は、報復を正当化する声で満ちていました。
その中で、彼はあくまで理性の声を守り抜きました。
「かわいそうなインディアンたちの唯一の罪は、
肌が赤茶色で黒髪だということにすぎない。」
この言葉には、18世紀の啓蒙主義の精神──
「人は肌の色ではなく、行為で判断されるべきだ」
という普遍的な信念が宿っています。
そしてその理性は、現代の差別やヘイトスピーチに対しても、
変わらぬ指針となります。
■現代にも続く「一般化の罠」
SNSやニュースでは、今も「〇〇人はこうだ」「〇〇層は危険だ」という
“ラベリング”が日常的に行われています。
フランクリンが指摘したのは、まさにこの思考の危うさです。
「他人と同じ顔になれないように、他人と同じ考えにもなれない。」(第137節)
一人ひとりの違いを無視して、
「集団」という曖昧な枠に押し込むこと。
それは、社会の分断を深めるだけでなく、
人間としての理性を鈍らせる行為でもあります。
■「共通の人間性」に立ち戻る
フランクリンのこの手記は、戦争や暴力の只中で書かれました。
それでも彼は、復讐ではなく理解と共感の道を選びます。
「個人の罪を、集団の罪に一般化してはならない。」
この一文には、人間の尊厳を守るための根源的なメッセージが込められています。
誰かを“敵”としてではなく、“同じ人間”として見る努力。
それが、彼のいう「理性の徳」だったのです。
■まとめ:フランクリンが示した「理性による勇気」
フランクリンの思想を現代に言い換えるなら、こうなるでしょう。
- 一人の行為で集団を裁かない
- 人をラベルで判断せず、個として向き合う
- 感情より理性で語る勇気を持つ
彼が信じたのは、知性と共感の力です。
それは、怒りに支配される社会を、理性によって取り戻す希望の哲学でした。
「肌の色ではなく、心の行いで人を見よ。」
──その言葉を、今の時代にこそ再び胸に刻みたいものです。
