「野蛮」と呼ぶ前に──フランクリンが教える“異文化を尊重する理性”
「わたしたちはインディアンを“野蛮人”と呼ぶ。
だが、彼らもわたしたちを“無作法な人々”と呼んでいるかもしれない。」
──これは、1784年にベンジャミン・フランクリンが記した言葉です。
彼はこの文章の中で、ヨーロッパ人が“文明人”を自称しながら、
異文化を見下す態度を痛烈に批判しました。
■「自分のマナー=正しい」と思い込む危うさ
フランクリンはまず、こう指摘します。
「異なるマナーをもっているので、わたしたちはインディアンを野蛮人よばわりしている。
だが、彼らも自分たちのマナーを“礼節の完成形”だと考えている。」
つまり、文化とは相対的なものだということです。
人は自分の文化圏で育ったマナーや価値観を「常識」と信じますが、
他の文化から見ればそれは非常識かもしれない。
たとえば──
- 食事の作法
- 挨拶や沈黙のルール
- 家族や仕事の関係性
どれも「正しい」か「間違い」ではなく、
**文化ごとの“合理性”や“美徳”**があるのです。
■“野蛮人”というレッテルは、無知から生まれる
フランクリンはヨーロッパ中心の文明観を強く疑っていました。
彼は言います。
「礼儀作法をもたない民族などなく、
粗野のなごりをまったくとどめない民族なども存在しない。」
つまり、どんな民族にも洗練された部分があり、
どんな文明にも未熟さがある。
「野蛮」とは、自分の物差しで他者を測るときに生まれる幻なのです。
■先住民社会に見た“理性的な秩序”
フランクリンは、先住民(インディアン)社会の政治や会話のマナーを
冷静かつ敬意をもって観察しています。
「政治は賢者たちの助言によって行われ、
無理強いも罰もなく、監獄もない。
だから雄弁術が尊ばれ、
話している人の言葉をさえぎるのは非常な無作法とされる。」
この記述には、驚くほどの洞察があります。
フランクリンは“文明”を、
法や建物の有無ではなく、人間の理性と礼節のあり方で測っていたのです。
権力や強制ではなく、言葉と尊敬によって秩序を保つ社会。
それこそ、彼が理想とした“市民社会”の原型でした。
■相手を理解しようとすることが「礼節」
フランクリンの思想の核心は、「相手の立場から世界を見る努力」です。
異文化を理解することは、単に知識を増やすことではなく、
自分の価値観を相対化する行為です。
「公平な観点で諸民族を検討すれば、
礼儀作法をもたない民族など存在しないことがわかる。」
この“公平な観点”こそが、現代の言葉でいう「多様性のリテラシー」です。
人を見下さず、違いを「面白い」「学びになる」と受け止める視点。
それが、真にグローバルな教養なのです。
■現代社会へのメッセージ
SNSや国際ニュースを見れば、今も文化の違いが誤解や対立を生む場面が絶えません。
しかし、フランクリンのように一歩立ち止まって考えてみると、
どの文化にも「理性」「美徳」「礼節」が存在します。
- “沈黙”を重んじる文化
- “率直さ”を美徳とする文化
- “集団の調和”を優先する文化
どれもその社会の環境と歴史が育んだ知恵です。
どちらが優れているわけでもなく、
違いの中に普遍を見いだすことこそが、成熟した人間の姿勢だとフランクリンは教えています。
■まとめ:「野蛮」と言う前に、まず学ぼう
フランクリンが残したこの文章は、18世紀の啓蒙思想の中でも際立つ人間主義です。
- 異文化は「正誤」ではなく「多様性」として受け入れる
- 自分の常識を絶対視しない
- 理性と敬意をもって他者を理解する
彼の思想を現代の言葉で表すなら、こう言えます。
「違いを恐れず、違いを学ぶことが、真の礼節である。」
