なぜ人は悪いとわかっていても間違いを繰り返すのか?|ローマ人への手紙7章18~25節に学ぶ「罪の原理」
「正しいことをしたいのに、つい間違ったことをしてしまう」
──この感覚に心当たりのある人は多いのではないでしょうか。
例えば、「明日こそ早起きしよう」と思っても夜更かししてしまう。
「もう怒らないようにしよう」と誓ったのに、また感情的になってしまう。
誰もが「善を望みながら、悪を行ってしまう」矛盾を抱えています。
この人間の深い葛藤を、聖書の「ローマ人への手紙7章18~25節」は見事に言い表しています。
「私は正しいことをしたいと願うのに、それができない。
善を行いたいと心から願いながらも、悪を行ってしまう。
それは私の中に『罪の原理』があるからだ。」
この言葉は、古代の宗教文書という枠を超えて、現代の心理学にも通じる深い洞察を含んでいます。
では、この「罪の原理」とは何なのでしょうか?
「罪の原理」とは、人の中にある二つのルールのせめぎ合い
聖書では、「罪の原理」とは「自分の中にある、良心に逆らう力」と説明されています。
それは、理性や良心が「正しい」とわかっていることに、あえて逆らわせるような衝動。
たとえば、
- 禁止されると、かえってやりたくなる
- ルールがあると、破ってみたくなる
- 「自分だけは大丈夫」と思ってリスクを取ってしまう
これらの行動は、単なる意志の弱さではなく、「人間の本能的な反発性」──つまり“内なるもう一人の自分”の働きです。
ローマ書の著者パウロは、この内なる対立を「心と体の戦い」と呼びました。
心(良心)は神の善を喜ぶ一方、体(欲望)は別の法則に従って動いてしまう。
その結果、人は常に自分の中で戦っているというのです。
現代心理学で見る「罪の原理」
心理学の世界でも、同じ現象は「自己制御の限界」や「快楽原則」として知られています。
人間の脳は、「短期的な快楽(欲望)」と「長期的な利益(理性)」を天秤にかけながら生きています。
理性的に考えれば「やめた方がいい」とわかっていても、感情や衝動はそれを上書きしてしまう。
つまり、「罪の原理」とは人間の脳に本来備わっている“二重構造”のことでもあります。
聖書が語るこの真理は、現代科学の視点からもまったく否定されないどころか、むしろ人間理解の核心に触れているのです。
「善を望みながら悪を行う」自分を責めすぎない
ここで大切なのは、この「罪の原理」を知ることによって、自分を責めないということです。
「また同じ失敗をした」「自分は弱い人間だ」と落ち込むよりも、
「人は誰しも、心の中に矛盾を抱えている」と受け入れることが第一歩です。
パウロもまた、自分の中の矛盾に苦しみながら、それを「恥ずべきこと」ではなく「人間の現実」として受け止めました。
この視点を持つだけで、私たちは自分にも他人にも、少し優しくなれます。
「内なる戦い」を乗り越えるために
「罪の原理」がある以上、人は完全に善だけを行うことはできません。
しかし、それを自覚した上で「どう生きるか」は、私たち次第です。
- 欲望と理性のせめぎ合いを観察する
「今、自分は何を望んでいるのか」「どんな感情が動いているのか」を丁寧に見つめることで、衝動に気づくことができます。 - “完璧”を目指さない
失敗しても、それは人間の自然な流れです。繰り返し気づき直すことこそが、成長の証です。 - 善を喜ぶ心を育てる
小さな善行でも「良いことをしてよかった」と感じる経験が、内なる善の法則を強めます。
この「小さな積み重ね」が、罪の原理に抗う力になるのです。
まとめ:人は矛盾を抱えてこそ、人間である
ローマ人への手紙7章18~25節は、完璧な善人など存在しないことを教えています。
人は誰しも、良い心と悪い心の両方を持ち、その中で葛藤しながら生きる。
それを「罪」と呼ぶのではなく、「人間らしさ」と受け入れたとき、心は少し自由になります。
「正しいことをしたいのに、できない」
──その痛みを知る人こそ、他人の弱さに寄り添える人です。
聖書の言葉は、その事実を静かに教えてくれています。
