【未来を決めることはできない】人生を導くのは「自分」ではなく「生かしている何か」
人生には、保証がない
「人の歩みは主によって定められている。どうして自分の道を理解できようか。」
― 箴言 20章24節
私たちは「努力すれば未来を変えられる」と信じがちです。
確かに、努力は人生に影響を与えます。
しかし、それが“未来の保証”になることはありません。
突然の事故、病気、災害、別れ――。
どれほど計画的に生きていても、人生は一瞬で変わります。
つまり、未来は人間のコントロールの外にあるのです。
「自分で生きている」という錯覚
人は、自分の人生を自分の力で動かしているように感じています。
しかし実際には、呼吸一つ、心臓の鼓動一つでさえ、自分の意志でコントロールしているわけではありません。
誰もが、目に見えない何かによって“生かされている”。
この事実に気づくとき、人は初めて「謙虚に生きる」という姿勢を知ります。
人生とは、自分のやりたいことを実現する舞台ではなく、
“生かされている目的”を果たすための旅路なのです。
計画どおりにいかないことこそ、人生の本質
思い返せば、「あのとき失敗したことが、今につながっている」という経験は誰にでもあるはずです。
・希望していなかった職場が、才能開花の場所になった
・失恋がきっかけで、本当に大切な人に出会えた
・挫折が、人生を見つめ直す契機になった
これらは、**自分が描いた計画の外側で起こる“導き”**です。
人間は未来をデザインすることはできませんが、
神(あるいは運命)は、あなたの理解を超えた形で最善の方向へ導いています。
「やりたいこと」が、必ずしも“正しい道”ではない
現代では「好きなことを仕事に」「やりたいことをやれ」というメッセージが溢れています。
しかし、聖書の視点から見ると、それは必ずしも最善ではありません。
なぜなら、「やりたいこと」はしばしば自己中心的な欲望から生まれ、
「生かされている目的」はもっと深く、他者や世界とつながる方向にあるからです。
本当に意味のある人生とは、
**“自分がやりたいこと”ではなく、“自分が果たすべきこと”**を見つけたときに始まります。
未来を信頼に委ねるという生き方
「未来を決められない」という事実は、恐れではなく解放を意味します。
未来を完全にコントロールできないからこそ、
私たちは“今”という瞬間に集中できるのです。
明日どうなるかはわからない。
だからこそ、今日を誠実に生き、与えられた環境の中で最善を尽くす。
それが、人生を導く“見えない手”への信頼の表れです。
転んでも、導かれている
人は失敗すると、「自分は間違った」と思いがちです。
しかし、神の視点から見れば、失敗すらも人生の必要なプロセスです。
転ぶことでしか見えない景色があります。
迷うことでしかたどり着けない場所があります。
一見「回り道」に見える人生も、実は最短ルートなのです。
その道筋は、私たちの理解を超えたところで正確にデザインされています。
「理解を超えた人生」を、受け入れる勇気を
箴言20章24節は、単なる宿命論ではありません。
それは、**「人間の理解を超えたところに、深い秩序がある」**という希望のメッセージです。
だからこそ、未来をすべて知ろうとせず、
“わからないこと”を受け入れて生きる勇気が求められます。
あなたの計画がうまくいかなくても、それは失敗ではありません。
むしろ、神の計画が動き出した証なのかもしれません。
まとめ:人生は、自分が書く物語ではない
私たちはつい、人生を“自分の作品”のように扱います。
しかし本当は、私たちは偉大な演出家の脚本の中を生かされている登場人物です。
「人の歩みは主によって定められている。」
この言葉を信じるとき、人生は「コントロールすべきもの」ではなく、
「信頼して歩むべきもの」へと変わります。
未来を決めようとするよりも、
未来を委ね、今日という一日を丁寧に生きること。
それこそが、最も確かな“導かれた人生”なのです。
