自分の欠点は長所にさえ見えてしまう──新渡戸稲造『人生読本』が教える「自己正当化の罠」
他人の欠点=自分の欠点の鏡
前章までで、新渡戸稲造は「人の悪いところは自分ももっている」「自分は人からどう見られているかを考えよ」と説いてきました。
そして、この章ではさらに深く、人間の“心の盲点”に踏み込みます。
「他人にどのような欠点があったとしても、同じ人間である以上、程度の差はあっても、自分にも必ず同じような欠点があるものだ。」
私たちは他人の短所を簡単に見抜けますが、自分の短所には驚くほど鈍感です。
そして、たとえ気づいても、「自分の場合は事情が違う」と思ってしまう。
これが、人間の避けがたい心理的なクセなのです。
自分の欠点には“理由”をつけたくなる
新渡戸は、人間が自分の欠点を認めづらい理由をこう説明します。
「人間というのは、そのような自分の欠点を自覚できたとしても、自分の場合には何か特別な理由があるように思えてしまう。」
たとえば、
- 他人の遅刻 → 「だらしない人だ」
- 自分の遅刻 → 「今日は電車が遅れた」「昨日疲れていた」
他人に対しては“結果”で判断し、自分に対しては“理由”で判断する。
このような「自己正当化の心理」は、誰にでもあります。
それは決して悪意ではなく、自分を守るための自然な防衛反応です。
しかし、それが行き過ぎると、欠点を正当化し、反省や成長の機会を失ってしまうのです。
欠点を“長所”と誤解してしまう危うさ
新渡戸はさらに一歩踏み込みます。
「はなはだしい場合には、それが自分の長所であると思いこんでしまうことさえある。」
たとえば、
- 「私は意志が強い」と思っていたら、実はただの頑固だった
- 「私は率直な性格だ」と思っていたら、単に無神経だった
- 「私は自立している」と思っていたら、実は他人を頼れないだけだった
このように、自分の欠点を“美化”してしまうことが、人間にはよくあります。
それが厄介なのは、「本人が気づきにくい」という点です。
自分では長所だと思っている部分が、他人には“扱いにくい面”として映っていることも少なくありません。
だからこそ、客観的な視点——つまり“他者の鏡”が必要なのです。
他人の欠点を「大きく」見てしまう理由
一方で、新渡戸は人間のもう一つの傾向を指摘します。
「他人の場合には、それが実際以上に大きな欠点に見えてしまうのである。」
他人の欠点は、遠くから見ても目立ちます。
自分の欠点は、いつも一緒にいるせいで見慣れてしまう。
まるで、自分の顔のシミには気づかないのに、人の顔のシミにはすぐ気づくようなものです。
つまり、人間は自分に甘く、他人に厳しい存在なのです。
しかし、そのバランスを意識的に修正できるかどうかが、成熟した人間かどうかの分かれ目です。
謙虚さこそ、人を磨く鏡
では、どうすればこの“自己正当化の罠”から抜け出せるのでしょうか。
新渡戸の教えを現代的に整理すると、次の三つがポイントです。
① 他人の欠点を見たとき、「自分にもあるかも」と考える
非難よりも自己反省へ。
他人の欠点に気づいた瞬間が、自分を磨く絶好のチャンスです。
② 自分の長所を、あえて他人の目で見てみる
「自分の強み」が周囲にはどう映っているか。
信頼できる人に率直な意見を求めてみるのも良い方法です。
③ 「自分にも間違いがあるかもしれない」と思う勇気を持つ
この一言が、謙虚さの核心です。
完璧な人間はいません。
「もしかしたら自分もそうかもしれない」と思える人こそ、他人を理解し、愛せる人です。
まとめ:欠点を認めることが、成長のはじまり
新渡戸稲造が『人生読本』で伝えたかったのは、
「人の欠点を責める前に、自分の欠点を知れ」という普遍的な真理です。
- 人の欠点は、自分にも必ずある
- 自分の欠点を正当化しない
- 欠点を長所と誤解せず、客観的に見つめ直す
謙虚さとは、自己否定ではなく“自己理解”の一形態です。
自分の弱さを認められる人ほど、他人に優しく、そして誠実になれる。
最後に
『人生読本』のこの章は、現代社会にもそのまま当てはまります。
SNSや職場などで他人の欠点ばかりが目につくときこそ、
「自分も同じかもしれない」と静かに省みることが、心を成長させる第一歩です。
自分を正しく見ること——それが、他人を正しく理解することにつながります。
そしてその両方が、人としての成熟をつくるのです。
