現実世界から一歩高いところを目指せ──新渡戸稲造『人生読本』に学ぶ、富と名誉を清く使う生き方
富や名誉を求めても、満足は得られない
新渡戸稲造は『人生読本』の中で、人間の欲望の本質をこう喝破します。
「人は富を得てもそれで満足することはなく、ますます大きな富が欲しくなるものだ。」
どれほどの財産を手にしても、さらに上を見ればキリがない。
富を求めれば求めるほど、欲望は尽きることなく膨らみ、心の平安は遠ざかっていく——これは、古今東西を問わない人間の真実です。
新渡戸は、そうした“欲望の無限連鎖”から抜け出すためには、現実世界より一歩高い理想の世界を目指すべきだと説いています。
富や名誉は「目的」ではなく「手段」
「かりに富を求めるとしても、それを一つの手段や方法とみなし、自分の理想とすることのために行うのであれば、そのために堕落するようなことはない。」
ここで新渡戸が伝えたいのは、“富を悪”と見なすのではなく、どう使うかが問題だということ。
お金や名誉を完全に否定するのではなく、それらを「理想を実現するための手段」として使うなら、清らかで有意義なものになるのです。
たとえば、
- お金を人のために使う
- 名誉を社会貢献のために活かす
- 能力を自己満足ではなく公共のために役立てる
そうすれば、同じ“欲”であっても、それは自己中心的な欲望ではなく、理想に向かうエネルギーに変わります。
「積もれば積もるほど汚くなる」は真実ではない
「『積もれば積もるほど汚くなる』といわれるお金も、理想のために積むのであれば、積もるにしたがって清くなる。」
この言葉には、新渡戸の清貧思想の奥にある柔軟な人間観が表れています。
お金は、それ自体が「善」でも「悪」でもありません。
それを使う人の心が清ければ、お金も清くなる。
つまり、富の本質は“道徳的中立”。
清い心で扱えば清くなり、欲にまみれた心で扱えば濁る。
新渡戸は、人間の心こそが富の価値を決める、と説いているのです。
名誉もまた「目的」にしてはいけない
新渡戸は、名誉についても同じ構造を指摘します。
「名誉そのものを求めれば、どんな名誉を得ても不満に思い、自分よりも有名な人を妬ましく思う。」
名誉を得た瞬間は喜びを感じても、すぐに「もっと上がいる」と感じてしまう。
その結果、終わりのない比較と嫉妬に苦しむことになります。
しかし、新渡戸はその“欲望の悪循環”を断ち切る方法も示しています。
「名誉以外に狙いを定めれば、名誉を得たからといっても奢らず、平静な心を維持することができる。」
つまり、名誉を超えた理想を目標にすれば、名誉は自然とついてくるということです。
名誉そのものを追うのではなく、誠実な仕事・奉仕・学びといった“理想”を追う。
その結果として得られる名誉は、心を濁らせないのです。
「理想を掲げる」ことが人を清くする
新渡戸の言う「現実世界から一歩高いところを目指す」とは、
日常生活や世俗的価値観を否定することではなく、それらを理想によって導くことです。
- 富を求めてもいい、ただし理想のために
- 名誉を得てもいい、ただし驕らず誠実に
- 現実を生きながらも、精神は高みを目指す
それが、“現実に生きながら理想を忘れない生き方”であり、新渡戸が説く「修養の真髄」なのです。
富も名誉も「理想を映す鏡」
新渡戸の思想を現代に置き換えると、富や名誉は**「自分の心を映す鏡」**と言えるでしょう。
清い心で求めれば清くなり、汚れた心で求めれば濁る。
理想を見失ったとき、富は重荷となり、名誉は毒になります。
しかし、理想を掲げている限り、それらは人を磨く修養の道具となります。
まとめ:現実を超える“理想の力”
『人生読本』のこの章が教えるのは、次のような人生哲学です。
- 富や名誉は悪ではない。問題は「使い方」にある。
- 理想を掲げれば、富も名誉も清らかなものになる。
- 名誉や富を目的にする人は満たされず、理想を目的にする人は心が安らぐ。
つまり、現実を否定するのではなく、現実を理想で照らす生き方こそが人を清くするのです。
最後に
新渡戸稲造の言葉を現代風に訳すなら、こうなるでしょう。
「お金や名誉を持つことが問題なのではない。
それを“何のために”使うかが、人の価値を決める。」
現実の中で理想を忘れずに生きること。
それが、「現実世界から一歩高いところを目指せ」という新渡戸の教えの真意です。
