新渡戸稲造『人生雑感』に学ぶ——人間は「あたりまえのように」死ぬのがいい
「あたりまえのように死ぬ」——新渡戸稲造の静かな死生観
新渡戸稲造は『人生雑感』の中でこう語っています。
「プルタークの『英雄伝』などを読むと、ローマの英雄の中には日本の英雄豪傑のような人がたくさん出てくる。そういう英雄たちは、自分たちの死を一種のドラマのように劇的なものとして演じている。
しかし、そうした死に方に私は感心しない。人間は、何の変哲もなく、あたりまえのようにして死んでいくのが一番いいのだ。」
この言葉には、新渡戸の穏やかで静かな人生観が凝縮されています。
彼は「死」を特別な出来事ではなく、**“生の延長として自然に迎えるもの”**と考えていたのです。
「劇的な死」よりも「静かな生」を尊ぶ
歴史上の英雄たちが、壮絶な最期や劇的な死を選ぶことは少なくありません。
しかし新渡戸は、そうした「ドラマティックな死」を美徳とは見ませんでした。
彼にとって理想の生き方とは、
- 特別な演出をしないこと
- 最後の瞬間まで普段通りであること
- 死を恐れず、自然に受け入れること
つまり、「生きること」と「死ぬこと」を対立させず、同じ線上でとらえる姿勢です。
これはまさに、東洋的な**「自然観」「無為自然」**の思想にも通じています。
西郷隆盛に見る「生と死の一貫性」
新渡戸はこの章で、最も尊敬する人物として**西郷南洲(隆盛)**を挙げています。
「南洲には生きていても死んでいても何も変わらないといったところがある。
まさに死を見ること生のごとく、生を見ること死のごとくといった感じである。」
西郷隆盛の生き方には、名誉や権力への執着がなく、
生死の境を超えた「静かな覚悟」がありました。
彼にとって生も死も“自然の理(ことわり)”であり、どちらも恐れる対象ではなかったのです。
新渡戸が理想としたのは、まさにこのような**「生死一如(せいしいちにょ)」**の境地でした。
生と死を分けず、同じ姿勢で貫くこと。
それが「人としての完成」である、と。
「あたりまえの死」とは、「あたりまえの生」の積み重ね
新渡戸が言う「あたりまえのように死ぬ」とは、
日々の生を誠実に積み重ねてきた人だけが迎えられる最期です。
特別な言葉も、派手な演出もいらない。
普段通りに、静かに、穏やかに。
それは、毎日を丁寧に生きてきた証です。
つまり、**「どんな死を迎えるか」よりも「どんな生を重ねてきたか」**が大切なのです。
現代に生きる私たちへの示唆
現代社会では、死は忌避され、避けるべき話題とされがちです。
一方で「感動的な最期」や「美しい死」を理想化する傾向もあります。
しかし、新渡戸稲造はそのどちらにも与しません。
「人間は、何の変哲もなく、あたりまえのようにして死んでいくのが一番いい。」
この言葉は、**「死を特別視しない」=「生を自然に受け入れる」**ということです。
死を恐れることは、同時に「生を執着すること」でもある。
だからこそ新渡戸は、死を平然と受け止める心を「修養」の究極としました。
まとめ:生も死も、自然体であることの美しさ
新渡戸稲造の『人生雑感』は、派手さではなく「静かな強さ」を教えてくれます。
生も死も、同じように自然であること。
それが、真に修養された人間の生き方である。
死を意識することは、よりよく生きることにつながります。
あたりまえのように生き、あたりまえのように死ぬ——
その自然な生きざまこそ、新渡戸稲造が求めた「人としての完成」の姿なのです。
