新渡戸稲造『修養』に学ぶ——善意の動機をもて
人を動かす「四つの動機」——新渡戸の人間理解
新渡戸稲造は『修養』の中で、人間の心を動かす四つの強い動機を挙げています。
「人間の心を動かす動機には強力なものが四つある。
色情、利益、権力、名誉の四つだ。」
これは、人間の本能や社会的欲求を見事に整理した指摘です。
つまり——
- 色情(愛・情欲)
- 利益(お金や経済的報酬)
- 権力(人を支配したい欲)
- 名誉(認められたい欲)
これらはすべて、人間の行動を突き動かす“エネルギー”です。
新渡戸は、このエネルギーを否定しません。
むしろ、「これをどう使うか」がすべてを決めると説きます。
「動機の善悪」が人生を分ける
「これらの動機は強力なものであるだけに、善意に使えば社会に大きな貢献をすることができる。
しかしその反対に、これを悪意に使えば多大な害悪をもたらすことになる。」
ここで新渡戸は、善と悪の境界は“何をしたか”ではなく、“どんな心でそれをしたか”にあると説いています。
たとえば、
- 利益を求める商人が、社会の役に立つ商品を生み出すなら、それは善。
- 名誉を求める政治家が、国のために尽くすなら、それも善。
しかし同じ「利益」や「名誉」でも、
自己中心的な動機であれば、社会に害を及ぼす。
つまり、行動の価値は「結果」ではなく「動機」で決まるのです。
「善意の動機」とは何か?
新渡戸の言う「善意の動機」とは、単なる“いい人ぶり”ではありません。
それは、**「自分の行動が他者や社会にどう影響するかを考える心」**です。
善意とは——
- 誰かを喜ばせたい
- 世の中を少しでも良くしたい
- 他人の幸福を願う
こうした思いが行動の根底にあること。
それが、人間としての成熟の証なのです。
そして新渡戸は、この「善意の動機」こそが、人を大きく、豊かに成長させる源だと考えていました。
「悪意の動機」は必ず破滅をもたらす
「社会のために大いに貢献するか、それとも大きな害悪となるか、それはその人の動機次第なのだ。」
悪意とは、必ずしも「他人を傷つけたい」という露骨な感情だけではありません。
新渡戸が戒めるのは、利己的な動機です。
- 自分だけ得をしたい
- 評価を得るためだけに行動する
- 他人を見下して優越感に浸る
こうした動機に基づく行動は、たとえ外見上は立派でも、長くは続きません。
やがて信頼を失い、自らの心をも蝕んでしまう。
新渡戸は、この「動機の純度」こそが、人の真価を決めると言っているのです。
現代に通じる——動機の“透明さ”を持て
現代社会では、成功や影響力が重視されるあまり、「結果さえ良ければいい」という風潮が強まっています。
しかし新渡戸は、100年以上前からこの風潮を見抜き、警鐘を鳴らしていました。
成功よりも、誠実な動機を。
善意の動機で動く人は、たとえ小さな行いでも、人の心を動かす力を持っています。
一方、利己的な動機の行動は、短期的には成功しても、やがて信頼を失う。
つまり、動機の透明さが、その人の人生の“信用”を決めるのです。
善意の動機が人生を照らす
新渡戸稲造の人生そのものが、この思想を体現していました。
彼は教育者として、国際人として、常に「人類に貢献する」という善意の動機を持ち続けました。
富や名誉のためではなく、「人の心を育てたい」という願いが、彼の行動の原動力でした。
私たちもまた、何かを決断するとき、こう自問するべきでしょう。
「それは善意から生まれた行動だろうか?」
この問いがある限り、人生は決して誤った方向には進みません。
まとめ:強い動機ほど、善意で使え
新渡戸稲造『修養』のこの一節は、
現代社会の“動機の喪失”に対する永遠の指針です。
「社会のために大いに貢献するか、それとも大きな害悪となるか、それはその人の動機次第なのだ。」
人間の心には強い欲望がある。
それを否定する必要はない。
しかし、その力をどこに向けるか——それを決めるのは“善意”という舵です。
強い動機ほど、善意で使え。
それが、新渡戸稲造の伝えた「修養」の核心であり、
真に尊い人生を築くための普遍の原理なのです。
