新渡戸稲造『世渡りの道』に学ぶ——物事は公平な目では見られないと思え
「小我」が人の目を曇らせる——新渡戸の人間観
新渡戸稲造は『世渡りの道』でこう語ります。
「自己の望みや欲望のことを私は『小我』と呼んでいる。
この『小我』は磁石のようなもので、知らず知らずの間に、あらゆる理由を『小我』のほうに引きつけようとする。」
この「小我」という概念は、新渡戸哲学を理解するうえで非常に重要です。
「小我」とは、自分の利益や感情、好き嫌いを中心にものを考える心。
つまり、人間の根源的な自己中心性を指しています。
新渡戸は、人間は理性で判断しているようでいて、
実際にはこの「小我」に引きずられている、と喝破します。
「好きな人の欠点は小さく、嫌いな人の欠点は大きく見える」
「人間は自分の嫌いな者の欠点は非常に大きく見える一方、
自分の好きな者の欠点は非常に小さく見えてしまう。」
この一文は、人間心理の真実を突いています。
私たちは誰しも、「感情のフィルター」を通して人を見ています。
たとえば、
- 好きな人が遅刻しても「忙しかったのだろう」と思える。
- 嫌いな人が遅刻すると「まただ」と腹を立てる。
これはまさに、「小我」による判断の歪みです。
新渡戸は、「自分の判断は常に偏っているかもしれない」という自覚を持て、と説きます。
「公平さ」とは、自分の不公平さを知ること
多くの人は、「公平に判断したい」と思います。
しかし新渡戸は、それが完全には不可能であると見抜いていました。
「人間というのは、自分では物事を正しく見ているつもりでも、
実際には『小我』の制約を受けてしまっているのだ。」
つまり、人間は自分の立場・感情・利益に左右される存在であり、
「絶対的な公平」などあり得ないのです。
では、どうすればいいのか?
新渡戸は、**「自分の不公平さを自覚すること」**こそが、公平への第一歩だと教えます。
自分は正しいと思い込まない。
自分の判断にも偏りがあると認める。
その謙虚な姿勢が、人間関係を円滑にし、社会をより良くしていく出発点となるのです。
「小我」を超えるための修養
『修養』や『世渡りの道』で繰り返し登場するテーマのひとつが、「小我を克服せよ」という教えです。
新渡戸にとって、修養とは**「小我を大我に高めていく努力」**でした。
- 「小我」=自分中心の心
- 「大我」=他人や社会全体を思いやる心
この「小我→大我」への成長こそ、人間的成熟の本質です。
つまり、公平さとは「他者を思いやる視点を持つこと」でもあるのです。
新渡戸は、自らの偏りを意識しつつ、
それを超えて他人を理解しようと努める姿勢を「修養の道」と呼びました。
現代に通じる「小我」の罠
SNSやネット社会では、意見の対立が激しくなりがちです。
人は自分の信じたい情報だけを信じ、異なる意見を持つ人を「敵」とみなしてしまう。
まさに、現代は「小我」が強く働く時代です。
新渡戸の言葉を現代に置き換えるなら、こうなるでしょう。
「あなたの正しさも、小我の影響を受けているかもしれない。」
この一歩引いた視点を持てる人だけが、
本当の意味で人間的に成熟した「公正な人」になれるのです。
まとめ:公平であろうとする努力、それが修養
新渡戸稲造『世渡りの道』のこの章は、
人間の弱さを責めるのではなく、「弱さを自覚せよ」と諭しています。
「人間というのは、自分では物事を正しく見ているつもりでも、
実際には『小我』の制約を受けてしまっているのだ。」
公平に見ようとする努力そのものが、すでに修養です。
完璧な公平さは不可能でも、
「自分の中に小我がある」と気づくだけで、判断は驚くほど変わります。
人間関係で迷ったとき、対立が生じたとき、
新渡戸のこの言葉を思い出したいものです。
「物事は公平な目では見られないと思え。」
その謙虚な自覚こそが、真の公正と成熟をもたらすのです。
