「人の非は見ないようにせよ」──新渡戸稲造『人生読本』に学ぶ、悪口を超える品格ある生き方
「人の非は見ないようにせよ」──心を汚すのは他人の悪ではなく、自分の言葉
新渡戸稲造は『人生読本』の中でこう語ります。
「とかく人の悪口をいうのはおもしろく、しかも、それをいっている間は、さほど悪いとも感じないものだ。」
確かに、他人の失敗や欠点を話題にするとき、人は一瞬だけ優越感を覚えます。
しかし、それは心を静かに蝕む快楽でもあります。
悪口を言っているときは楽しい。
けれど、その後には「何か自分が下品になったような気分」が残る。
新渡戸は、その心の変化こそが“人間としての警鐘”だと説きます。
「悪口の後の虚しさ」が教えてくれること
「悪口をいい終わったあとになると、何か自分が下品になったようで、高いところから泥の中に落ちたような気分になる。」
この感覚を覚えたことのある人は多いのではないでしょうか。
その瞬間の快感はすぐに消え、残るのは自己嫌悪。
新渡戸は、この“泥のような感覚”を自覚することこそが、人としての成長の第一歩だと伝えています。
人を下げることで自分が上がるように感じても、それは錯覚。
実際には、自分の品位を落としているだけなのです。
「人の非を見ない」という努力こそ修養
新渡戸はこう続けます。
「そうならないようにするためには、人の非を見ないように努力することが大切だ。」
つまり、人の欠点に目を向けないよう努めることが、人格を磨く修行なのです。
人は誰しも欠点を持っています。
それを探そうと思えば、いくらでも見つけることができる。
しかし、それを見て批判するよりも、相手の中の良い部分に目を向ける方が、自分の心を高めます。
悪口を言わないというのは、他人のためではなく、自分の品格を守るための行いなのです。
「見えてしまった非」をどう扱うか
とはいえ、人の短所が目に入ってしまうこともあります。
それでも新渡戸は、次のように戒めます。
「不幸にしてそれが見えてしまった場合でも、せめてこれを口外しないように努力することが大切だ。」
ここには、沈黙の徳があります。
人の欠点を見ても、それを他人に広めない。
言葉を慎むことで、自分も他人も傷つけずに済む。
口を閉ざすことは時に難しいですが、それこそが「内なる強さ」です。
沈黙の中に、人格が磨かれていくのです。
現代社会における「悪口の誘惑」
SNSが普及した現代では、悪口や批判を発信することが簡単になりました。
匿名の言葉が人を傷つけ、炎上が日常的に起こる時代。
そんな今だからこそ、新渡戸の言葉はさらに重く響きます。
「人の非を見ないようにせよ」とは、単なる道徳の教えではなく、
言葉の時代における自己防衛の知恵でもあるのです。
批判の言葉を吐けば吐くほど、心は荒れていく。
逆に、感謝や尊敬の言葉を口にすれば、心は穏やかになる。
言葉は、最も身近で強力な“心の鏡”なのです。
「悪を見ない人」は、善を見つける力を持つ
人の悪を見ないようにする人は、同時に人の善を見抜く目を養います。
欠点の中にも美点を見出し、他人を温かく受け止められる。
そうした人は自然と周囲から信頼され、穏やかな人間関係を築くことができます。
新渡戸が理想としたのは、まさにこの「温かい眼差し」を持つ人間像です。
それは無関心ではなく、思いやりをもった寛容さなのです。
まとめ:人の非を見ない人は、自分を高める人である
『人生読本』のこの一節は、短いながらも人生訓の核心を突いています。
「人の非を見ないように努力することが大切だ。」
悪口を言わない、欠点を責めない、見えても口にしない。
それは簡単なことではありませんが、その努力こそが人を成熟させます。
他人の悪を見るより、自分の心を磨く。
非を探すより、美徳を見つける。
そうした生き方が、最終的に自分を高め、周囲に穏やかさを広げていく。
新渡戸稲造の言葉は、まさに現代を生きる私たちへの「品格の指南書」といえるでしょう。
