自己啓発

「自分の名誉を傷つけた相手こそ愛せよ」──新渡戸稲造『修養』に学ぶ、赦しが導く真の強さ

taka
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「自分の名誉を傷つけた相手こそ愛せよ」──人間の理想とは、憎しみを超えること

新渡戸稲造は『修養』の中で、こう述べています。

「人から非難され、名誉を傷つけられる。そんなときには、その相手を哀れなものと思い、愛するまでに自分を高めたいものだ。」

この言葉は、いわば**「心の成熟」**についての教えです。
誰かに誤解されたり、悪意を向けられたりすることは、人生で避けられません。
しかし、そこで怒りや憎しみに支配されるのではなく、
「相手を哀れみ、愛せるまでに心を高めよ」と新渡戸は言います。

それは聖人のように難しい理想かもしれません。
けれど、この理想を掲げること自体が、私たちの心を成長させる一歩になるのです。


「赦すこと」は、相手のためではなく、自分のため

人から非難されたとき、私たちは本能的に反発したくなります。
「なぜそんなことを言われなければならないのか」と。
しかし、新渡戸はあえてその逆を勧めます。

「その相手を哀れなものと思い、愛するまでに自分を高めたいものだ。」

つまり、怒りや恨みを抱えたままでいることこそ、自分の心を汚す行為なのです。
赦すという行為は、相手を救うためではなく、自分を自由にするための修養です。

他人を許すとは、相手の過ちを受け入れることではありません。
自分の心が、怒りや嫉妬に縛られないようにするための“心の訓練”なのです。


「理想だけは高く持とう」という新渡戸の人間理解

新渡戸はこの教えの中で、現実的な視点も忘れていません。

「もちろん、こんなことは聖人君子でもなかなかできないだろう。しかし、たとえ実際にはできなくても、理想だけは高くもとう。」

ここに、新渡戸の人間味が表れています。
彼は「完璧であれ」とは言いません。
むしろ、人間は弱くてもよい、しかし理想を持ち続けよと説きます。

理想は、すぐに実現できなくても、自分の心を照らす灯になります。
「許すことはできなくても、憎まないように努力する」──
その努力こそが、人格の修養につながるのです。


「愛するまでに自分を高める」とは何を意味するか

ここで言う「愛する」とは、感情的な愛情ではなく、人間としての慈愛です。
相手の過ちや攻撃的な言動の背後にある“無知や不安”を見抜き、
「この人もまた苦しんでいるのだ」と理解する。

そう考えることができたとき、
怒りは静まり、代わりに穏やかな同情心が生まれます。
それが、新渡戸の言う「愛するまでに自分を高める」という境地です。

つまり、他人を責めるより、他人の苦しみを見抜く目を養うこと。
それが人としての修養なのです。


憎しみを手放す勇気が、真の強さを育てる

新渡戸は、憎しみを手放すことを“心の勝利”と見なしています。

「いつの日か、たとえ愛することはできなくとも、憎んだり恨んだりすることだけはしなくてすむようになるだろう。」

愛することができなくてもいい。
それでも、憎まずにいられるようになること──
それが、人としての成熟の証です。

憎しみは、持ち続けるほどに自分を蝕みます。
それを手放せたとき、人はようやく「心の平和」を得られるのです。


現代社会における「許し」の価値

現代はSNSやメディアなどを通して、他人を非難する声があふれています。
他人の失敗を叩き、間違いを許さない風潮の中で、
新渡戸のこの言葉は、まるで時代への静かな警鐘のようです。

「自分の名誉を傷つけた相手を憎まず、愛せるようになれ。」
それは、感情的な対立を超え、人間同士の尊厳を取り戻すための道でもあります。


まとめ:赦すことは、最も難しく、最も尊い修養

『修養』のこの一節は、人間としてどう生きるべきかを静かに教えてくれます。

「自分の名誉を傷つけた相手こそ愛せよ。」

この言葉は、怒りを抑えなさいという説教ではなく、
「心を高めて、憎しみに負けない自分であれ」という励ましです。

許すことは弱さではなく、勇気の証。
愛することは屈服ではなく、精神の勝利。

理想は高く、現実は謙虚に。
それが、新渡戸稲造が説いた“修養の道”なのです。

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ABOUT ME
TAKA
TAKA
理学療法士/ビール
理学療法士として臨床に携わりながら、リハビリ・運動学・生理学を中心に学びを整理し発信しています。心理学や自己啓発、読書からの気づきも取り入れ、専門職だけでなく一般の方にも役立つ知識を届けることを目指しています。
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