自己啓発

老子が説く「言葉を超えた知恵」|語らずして知る、“玄同”という境地

taka
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言葉に頼ると、本当の「知」は止まる

老子はこう言います。

ものごとを知るには、言葉に頼るな。
言葉に頼って考えるときには、
知るという暗黙の働きが、止まってしまうからだ。

この言葉は、現代の私たちにとって衝撃的です。
なぜなら、私たちは“知ること=言語化すること”だと信じているからです。

しかし老子は、真の知とは「言葉にする前の静かな理解」だと言うのです。
それは、右手で右手を掴もうとしても掴めないようなもの。
知ろうとした瞬間に、その“知”は逃げてしまう。

老子が指摘するのは、「知」を追う心の動きそのものが、すでに「知らない状態」を作っているという逆説です。


「語らぬ知」とは、沈黙の中にある理解

私たちは、言葉で説明できないものを「理解できていない」と考えがちです。
けれども老子は、その真逆を説きます。

私たちは、ものごとを知らない間に、
暗黙のうちに、知ってしまっている。

たとえば──

  • 美しい景色を見たときに感じる静かな感動。
  • 赤ん坊を抱いたときの安心。
  • 誰かの痛みを見て胸が痛む瞬間。

それらは説明できないけれど、確かに「知っている」こと。
この“言葉にならない理解”こそが、老子の言う「暗黙の知」です。

そして、それを無理に言葉にしようとすると、
その静かな感覚は崩れてしまう。

つまり、「知を語るほど、知から遠ざかる」。
これが老子の知恵の核心です。


「口を閉じ、光を和らげる」——知の静寂へ

老子は、真にものごとを知るための方法を次のように説きます。

ものごとを知るには、口を閉じて、言葉の門を閉じよう。
己の理知の光を和らげ、塵芥の類と同化する。

ここでいう「理知の光を和らげる」とは、
自分の知性や正しさを前に出さず、静かに観察するということ。

“自分が正しい”という光が強すぎると、
他者も、世界も、かえって見えなくなってしまう。

一歩引いて、
“分からないまま観る”
“判断せずに感じる”

そのとき初めて、世界の本当の姿が見えてくる。
それが老子の言う「玄同(げんどう)」——**“世界と一体化した知”**です。


「玄同」に至った人は、何ものにも揺るがない

老子はこの章の後半で、「玄同に至った人」のあり方を描きます。

このような知に至った者に対して、
言葉に頼って世界を認識する者は、対処のしようがない。
親しむこともできず、疎外することもできない。
利することもできず、害することもできない。
貴いとすることもできず、卑しいとすることもできない。

これはつまり、**「何者にも分類できない人」**のこと。

「玄同」に至った人は、
他人の評価や立場に左右されず、
誉められても驕らず、
貶されても動じない。

その人は、もはや「言葉の世界」から自由になっている。
だからこそ、他者はその人をコントロールできないのです。

老子は、そうした存在こそが「天下に尊ばれる」と結びます。


言葉を捨てて、沈黙の知を取り戻す

現代社会は、言葉にあふれています。
SNS、ニュース、会話、自己表現——すべてが「語ること」で満たされている。

けれども老子は、静かに問いかけます。

「あなたは、語る前の“知”を覚えているか?」

本当に大切なことは、言葉では伝えられない。
「愛」「平和」「美」「真理」——
それらは語るほどに遠のく。

だからこそ、時に口を閉じ、心を静め、世界の呼吸を聴くことが大切なのです。


まとめ|「玄同」とは、語らぬ知の完成

老子の第56章が伝えるのは、
「知る」ことは「語らない」ことでもあるという逆説的な真理です。

  • 言葉に頼ると、真の理解は止まる。
  • 沈黙の中で、ものごとは自然にわかる。
  • 世界と一体になったとき、言葉はいらない。

老子は、言葉よりも“存在の知”を尊びました。

己の理知の光を和らげ、塵芥の類と同化する。

それは、偉大さを求めず、
ただ自然の一部として、静かに生きるということ。

語らずして知る人——
それが、老子のいう「玄同の人」なのです。

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ABOUT ME
TAKA
TAKA
理学療法士/ビール
理学療法士として臨床に携わりながら、リハビリ・運動学・生理学を中心に学びを整理し発信しています。心理学や自己啓発、読書からの気づきも取り入れ、専門職だけでなく一般の方にも役立つ知識を届けることを目指しています。
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