『菜根譚』に学ぶ「騒がしさも静かさも超越する心」― どんな環境でも穏やかでいられる人になる
『菜根譚』が教える「静けさとは、外ではなく内にある」
『菜根譚(さいこんたん)』は、明の思想家・洪自誠(こうじせい)が人生の知恵を凝縮した東洋哲学の書です。
その中の「騒がしさも静かさも超越する」という一節には、次のような言葉があります。
「騒々しさを嫌い、静かさを好む人は、人を避けることで静けさを得ようとする。
しかし、他人と関わらなければ心が穏やかでいられると思うのは、環境に依存している証拠である。
このような逃避の心では、『自他を区別せず、動静ともに忘れる境地』に到達することはできない。」
つまり、「静けさ」とは場所や環境の問題ではなく、心の在り方の問題なのです。
静かさを「外」に求めるうちは、心は騒がしいまま
現代社会では、多くの人が「静けさ」や「癒し」を求めて旅に出たり、瞑想やデジタルデトックスに挑戦したりします。
それは決して悪いことではありません。
しかし、『菜根譚』が指摘するのは、「外に静けさを求める心」そのものが、実は“執着”であるという点です。
たとえば、
- 騒音のないカフェでしか集中できない
- 一人の時間がないと心が安定しない
- 人間関係が煩わしくて逃げ出したい
これらの状態は、どれも環境が整わないと心が乱れるという依存を意味します。
洪自誠は、それを「真の静けさではない」と断じています。
本当の静けさとは、外の世界がどうであれ、内の心が動じないこと。
たとえ喧噪の中にいても、心が静かであれば、そこはすでに“静寂の場”なのです。
「逃げる静けさ」と「受け入れる静けさ」
『菜根譚』は、「人を避ける静けさ」と「心が澄む静けさ」を明確に区別しています。
- 逃げる静けさ:外の世界を拒むことで得る一時的な安らぎ。
- 受け入れる静けさ:喧騒の中でも乱れない、内面的な安定。
多くの人が求めているのは前者ですが、真に価値があるのは後者です。
つまり、「静かな場所に行かなくても、静かに生きられる人」が本当に強い。
そうした人は、どんな人間関係や環境の中でも、自分のペースを失わないのです。
動も静も超越する ― 「心の中心」を持つ生き方
洪自誠は、「動も静もともに忘れる境地」と述べています。
これは、禅の世界でいう「不動心」や「無心」に通じます。
騒がしいときも、静かなときも、心は揺れない。
喜びも怒りも、ただ“あるがまま”に受け入れる。
この境地に近づくために大切なのは、
- 環境や他人に「反応しすぎない」こと
- 自分の内側に「戻る習慣」を持つこと
具体的には、
- 朝や夜に数分の瞑想をする
- 人との会話で、すぐに反論せず一呼吸おく
- 心がざわついたときは、深呼吸して「今」に戻る
こうした小さな実践が、「騒がしさを超える心」を育てていきます。
現代社会こそ求められる「超越の心」
スマートフォン、SNS、仕事、情報――現代は“静かでいられない時代”です。
しかし、洪自誠が400年前に説いたこの一節は、まさに現代の私たちのための言葉のようです。
外の世界を変えることは難しい。
でも、内の世界を整えることは、いつでもできる。
本当の静けさとは、外を制御することではなく、自分の心の波を整えること。
そのための第一歩は、「静かさを求める」のではなく、「静けさを育てる」ことです。
まとめ:騒がしさも静かさも、すべては心の映し鏡
『菜根譚』のこの一節は、こう教えてくれます。
「静寂とは、逃げて得るものではなく、受け入れて生まれるもの。」
騒がしい環境も、静かな環境も、どちらもあなたの心の状態を映す鏡です。
だからこそ、外の音に惑わされず、自分の内に静けさを見出せる人が、本当の意味で自由なのです。
静けさは「場所」ではなく「心の姿勢」。
どんな時代でも、どんな場所でも、穏やかに生きるためのヒントが『菜根譚』には詰まっています。
