「福を植える人」が真に敬愛される理由──幸田露伴『努力論』に学ぶ、人としての最高の生き方
福を植える人は敬愛される
幸田露伴の『努力論』の中で繰り返し登場するキーワードが「福(ふく)」です。
露伴は、人の幸福や運命を“福の使い方”という観点から整理し、三段階の徳として説いています。
- 惜福(せきふく):福を浪費せず、大切に保つ。
- 分福(ぶんぷく):福を他者と分かち合い、共に喜ぶ。
- 植福(しょくふく):自らの力で新しい福を社会に“植え”、未来に残す。
この三つの中で、露伴は最後の「植福」こそが、最も尊く、真に敬愛される行為であると語ります。
「有福」は与えられたもの、「植福」は創り出すもの
露伴はまず、「有福(ゆうふく)」――すなわち“福を持っている人”について、次のように述べます。
「有福というのは祖先のおかげであり、その意味では何ら尊敬に値するものではない。」
生まれながらに裕福な人、運に恵まれた人、良い環境にいる人。
それ自体は確かに幸運ですが、本人の努力や徳によるものとは限りません。
その福は、先人や周囲の支えによって与えられた“借り物の福”なのです。
つまり、有福は感謝すべきことであっても、「尊敬の対象」ではない。
露伴はさらに段階を上げて、「惜福」や「分福」の工夫ができる人をより高く評価します。
そして最後に、こう断言します。
「真に敬愛されるべきは、福を植える人である。」
「惜福」や「分福」を超える“創造の徳”
惜福の人は、自分の福を大切にして長持ちさせる知恵を持っています。
分福の人は、その福を他人と分け合い、人に喜びを与えます。
しかし、どちらも「すでにある福」を守り、使う行為にすぎません。
一方で「植福する人」は、まだ存在しない幸福をこの世に生み出す人です。
露伴は、まさにこの“創造の徳”こそが、人として最も敬愛される理由だと説くのです。
「福を惜しむ人は福を保つことができるだろう。
福を人に分け与える人は福を為すことができるだろう。
しかし、子々孫々に受け継がれていくような福を造り出せるのは、福を植える人だけなのだ。」
「植福」とは、未来の幸福を創り出す行為
植福とは、単に誰かを助けるという一時的な善行ではなく、社会全体に長く続く幸福を生み出すことです。
たとえば、
- 教育に力を注ぎ、知を次世代に残す人
- 環境や地域を守り、未来の人々の暮らしを支える人
- 芸術や思想を通じて、心の豊かさを育む人
- 医療や科学を発展させ、人の命を救う道を開く人
こうした人々は、まさに“福の種を植える人”です。
彼らの行いは、本人が去った後も長く残り、社会や文化を育てていきます。
それこそが、「子々孫々に受け継がれる福」なのです。
敬愛される人とは、“自分以外の幸福”を願う人
露伴の言葉における「敬愛」とは、単なる尊敬ではありません。
「心から敬い、愛される存在」という意味です。
人は、権力や財力によって一時的に“尊敬される”ことはあっても、
“敬愛される”ためには、人の心を動かす優しさと徳が必要です。
そのためには、自分の幸福の範囲を超えて、他者や未来の幸福に心を向けること。
つまり、「植福の精神」を持つことが、人として最も美しく、最も愛される生き方なのです。
現代に生きる私たちの「植福」
露伴の時代から100年以上が経った今でも、この思想は決して古びていません。
むしろ、情報や物が溢れる現代だからこそ、「植福」の生き方が必要です。
私たちは日々、誰かの努力と恩恵の上に生きています。
ならば次は、自分が“恩をつなぐ人”になる番です。
たとえば、
- 自分の仕事を通じて、誰かの役に立つ
- 教えられたことを次の世代に伝える
- 小さな親切や気づきを社会に残す
それらはすべて、未来に福を植える行為です。
派手な功績ではなくても、確実に「次の幸福」を育てています。
まとめ:「植福の人」こそ、真に敬愛される
幸田露伴の言葉を借りるなら、
「人は、もらう福で幸せになり、与える福で尊敬され、植える福で敬愛される。」
福を惜しむ人は節度を持ち、分ける人は優しさを持つ。
しかし、植える人は“未来を照らす力”を持っています。
どんな小さな行為でも、「次の世代のために」という思いを込めて行えば、それは植福。
そして、そんな生き方を続ける人こそ、時代を超えて敬愛されるのです。
