なぜ「悲観」が社会を進歩させるのか?幸田露伴『努力論』が教える“悲観の価値”
「悲観」は社会を滅ぼすのではなく、救う
現代では「悲観」はしばしば“ネガティブな感情”として扱われます。
けれども、幸田露伴は『努力論』の中でまったく逆の視点を提示します。
悲観というのは、その性質として、悲観を抱く人に直接の利益をもたらすことはない。
しかし、そうした悲観を抱く人によってこそ、社会は大きな利益をもたらされる。
つまり、悲観は個人には苦しみを与えるが、社会には恩恵を与える感情だというのです。
「悲観者」がいなければ社会は腐敗する
露伴はさらに、驚くべき比喩を使います。
社会は悲観によって浄化され、調整される。
悲観という名の清水があるからこそ、人間は焼き尽くされずにすんでいる。
もしこの世の中に一人の悲観者もいなければ、社会はただちに阿鼻叫喚の地獄となるだろう。
この言葉は、悲観を「社会の清涼剤」として捉えています。
悲観する人——つまり「このままではいけない」と感じる人——がいるからこそ、
社会は改善され、バランスを保てるということです。
もし誰も悲観しなければ、
- 不正や不平等が放置され、
- 権力が暴走し、
- 人々のモラルが崩壊する——
露伴はそうした“楽観だけの社会”を、**「地獄」**と呼んだのです。
悲観がもたらす「社会の浄化作用」
悲観には2つの重要な働きがあります。
1. 現実への“問題意識”を生む
悲観は「このままではいけない」という感情です。
それは不満や怒りのように衝動的ではなく、理性的な反省と洞察を伴う感情です。
つまり、悲観こそが「現実を変える第一歩」になるのです。
歴史を見ても、社会の改革者たちは皆、現状への深い悲観を抱いていました。
- 不平等を憂いた思想家
- 貧困を嘆いた宗教家
- 環境破壊を悲しんだ科学者
彼らの“悲観”が、社会を少しずつ進歩させてきたのです。
2. 過剰な「楽観」へのブレーキとなる
露伴の言う「焼き尽くされずにすむ」という表現は、
人間社会が過剰な欲望や利己心で暴走しないための冷却装置としての悲観を意味しています。
悲観がなければ、人は「もっと儲けたい」「もっと支配したい」という拡張欲望を止められない。
悲観は、それを静かに抑える“理性の感情”なのです。
悲観を抱く人は損をしているようで、最も社会に貢献している
露伴はこうも述べています。
悲観という感情は、悲観を抱く本人にとって直接の利益はない。
確かに、悲観する人は報われにくい。
周囲から「暗い」「面倒だ」と思われることもあります。
しかし、彼らこそが社会の「良心」なのです。
露伴が言うように、悲観する人は、
- 現実の欠点を見逃さず、
- 社会のバランスを取り戻し、
- 未来への責任を感じて行動する。
彼らは社会の“痛覚”とも言える存在です。
痛みを感じない体が危険なように、悲観のない社会は崩壊します。
「悲観的であること」は希望の裏返し
露伴の思想をさらに掘り下げると、悲観とは「希望の裏側」であることが分かります。
人は、心のどこかで「もっと良い世界を望む」からこそ悲観するのです。
現状に満足していないからこそ、不満が生まれ、改善への意志が生まれる。
つまり、悲観とは希望の種なのです。
悲観できる人は、まだ世界をあきらめていない。
その心が社会を前へ押し出していくのです。
まとめ:「悲観」は人間と社会を浄化する清水である
幸田露伴の言葉を借りれば、悲観は「人間社会の清水(せいすい)」です。
それは苦くもあり、しかし欠かせない。
悲観のない社会は、阿鼻叫喚の地獄である。
この強烈な表現の裏にあるのは、悲観を恐れるなというメッセージです。
悲観は弱さではなく、思慮の深さの証。
そして、社会に新しい道を切り開く原動力です。
私たちは、悲観を恥じるのではなく、
その中にある「他者への思いやり」や「良心の声」を大切にしていくべきなのです。
