見返りを求めない生き方をせよ――幸田露伴『努力論』に学ぶ「真の犠牲」の精神
「犠牲」に報酬を求めるのは人間の常——しかしそれでいいのか?
幸田露伴は『努力論』の中で、現代にも通じる鋭い指摘をしています。
世の中は算盤づくの世界である。
自分が相手にしてあげたことに対して、見返りや報酬を期待するのが今の世の中の通例だ。
この言葉は100年以上前に書かれたものですが、いまなお私たちの社会に当てはまります。
家庭でも職場でも、誰かに何かをしてあげるとき、
心のどこかで「お返しがあるだろう」「感謝されたい」と期待してしまう——。
露伴は、そうした“算盤づくの心”が、真の徳を失わせると警鐘を鳴らしています。
「報酬を求めない犠牲」こそ人間の高貴な行為
露伴は続けてこう言います。
神や仏に供える物についてさえ、人はひそかに見返りを期待している。
真心からの犠牲であっても、「幸福を与えてくれるだろう」と望んでしまうのが世間一般の心情だ。
つまり、人間は「見返りを求めない」ということを、本当の意味ではなかなかできない。
それほどまでに、「与える」と「報われる」を無意識に結びつけてしまうのです。
しかし露伴が示す理想は、**“報酬を求めない犠牲”**です。
それは「自分のための善」ではなく、「他人や社会のための純粋な善」。
このような精神こそ、人間の心を高め、社会を明るくする原動力だと彼は説いています。
「見返りを求める善」は結局、自己満足で終わる
露伴の思想を現代風に言い換えると、
「条件付きの善意」は長続きしない、ということです。
- 助けたのに感謝されなかった
- 自分だけが損をした
- 誰も努力を認めてくれない
このように思うと、私たちはすぐに失望し、心を閉ざしてしまいます。
しかし、それは「見返りを前提にした善」だからです。
露伴はこの章を通して、こう問いかけているようです。
「あなたの優しさは、誰かに見せるためのものではないか?」
真の犠牲とは、報われることを目的にしない行為。
だからこそ、その尊さは静かで、そして揺るぎないのです。
「損得の心」を超えたとき、人は自由になる
露伴の「算盤づくの世界」という言葉は、今の私たちにも痛烈に響きます。
SNSでは「どれだけ“いいね”がもらえるか」、
仕事では「評価されるかどうか」が行動の基準になりがちです。
けれども、本当に価値のある行為は、他人の評価とは関係ありません。
報酬や感謝を求めないとき、人はようやく“自由”になれる。
その行為は、他人の反応に左右されず、純粋な内的満足をもたらします。
露伴の言葉を借りるなら——
**「損得を超えた心が、人間を最も美しくする」**のです。
見返りを求めない生き方を実践する3つのヒント
露伴の思想を日常に活かすために、次の3つの実践を意識してみましょう。
1. 「感謝されない善」を一つしてみる
誰にも気づかれなくてもよい行為を、一日一つ。
掃除・挨拶・譲り合い——それが心を整える訓練になります。
2. 「損をした」と思ったら、その心を観察する
損得で物事を考えそうになったら、「なぜ自分はそう感じるのか?」と内省してみる。
その一歩が、精神の成長につながります。
3. 「与える喜び」を感じる
報酬よりも、与える行為そのものに価値を見出す。
露伴の理想は、まさに「与えることで満たされる生き方」なのです。
まとめ:「犠牲」は報われなくても尊い
幸田露伴のこの章は、「犠牲の精神」についての深い哲学です。
彼は、善行を行うことそのものよりも、その心の純粋さを重んじました。
見返りを求める善は、やがて見返りがないと折れてしまう。
しかし、報酬を求めない犠牲は、誰にも見えなくても社会を潤す。
「真の犠牲とは、報われることを目的としない心である。」
露伴のこの思想は、現代の効率主義や成果主義の中でこそ輝きを放ちます。
“損得を超えた心”を持てたとき、人はようやく本当の自由と安らぎを得るのです。
