「人の可能性を伸ばすことが国を強くする」──幸田露伴『努力論』に学ぶ、教育と社会発展の原理
「可能率」とは何か──露伴の見抜いた“人の潜在力”
幸田露伴は『努力論』の中で、「可能率(かのうりつ)」という独特の言葉を使っています。
これは、現代で言うところの「ポテンシャル(潜在能力)」にあたる概念です。
露伴はこう述べます。
「政治や教育に従事したり関係したりしている者は、国家の利益を念頭において仕事をしている以上、個人の可能率を高めることを目標としなければならない。」
つまり、国家の発展とは、国民一人ひとりの“可能率”をどれだけ引き上げられるかにかかっているというのです。
国家を支えるのは「制度」ではなく「人」
露伴の思想は、非常に実践的で現代的です。
国を動かすのは政策でも仕組みでもなく、「人」であるという確信に基づいています。
どんなに立派な法律や制度が整っていても、それを運用する人の知恵や志が低ければ、社会は停滞します。
逆に、制度が未熟でも、そこに熱意と工夫を持つ人がいれば、国は必ず進歩します。
露伴は、教育者や政治家がこの原理を理解していないことを最も危惧していました。
「政治家や教育者がこの大切なことを忘れて、可能率を高める工夫を怠ったなら、その結果は大変なことになるだろう。」
つまり、人を育てる仕組みを怠れば、国家全体が衰退する。
露伴の警告は、今の日本社会にも痛烈に響きます。
「可能率を高める」とは、知識を増やすことではない
露伴が言う「可能率向上」とは、単に学力やスキルを上げることではありません。
それは、人間としての潜在能力を最大限に引き出すことを意味しています。
知識だけを詰め込む教育ではなく、
- 自ら考える力
- 他者と協力する力
- 困難に耐え抜く精神力
こうした力を育むことこそ、真の「可能率の向上」です。
露伴は、教育の目的を「知識の伝達」ではなく「人の育成」に置いていました。
まさにこれは、現代教育が再び取り戻そうとしている理念と重なります。
政治家・教育者に求められる“未来への責任”
露伴のこの一節は、特に指導者層への警鐘として読むべき部分でもあります。
政治家や教育者は、国家の未来をつくる立場にあります。
しかし、その仕事の目的を「選挙に勝つこと」「制度を守ること」に置いてしまえば、本質を見失います。
露伴が重視したのは、「人の可能性をどれだけ伸ばせるか」という一点。
これは、指導者だけでなく、企業のリーダーや教育現場の教師にもそのまま当てはまります。
- 社員の成長を促す上司
- 子どもの個性を尊重する教師
- 若者にチャンスを与える社会
こうした姿勢の積み重ねが、国家全体の“可能率”を押し上げるのです。
「可能率の向上」が国家を発展させる理由
露伴の発想は、経済成長や社会改革の根底にもつながっています。
国家が発展するためには、資源や技術だけでなく、人間そのものの質の向上が必要です。
可能率の高い人が増えるほど、
- 新しい発明やアイデアが生まれる
- より公正な判断ができる市民が増える
- 他者を思いやる文化が成熟する
つまり、「個人の成長=社会の進歩」という構図が生まれるのです。
露伴が説く「可能率の向上」は、経済的な利益だけでなく、文化的・倫理的な成熟をも含んだ「国家の真の発展論」でした。
現代への示唆:教育の「効率」よりも「育つ力」を
21世紀の社会では、「効率的な教育」「即戦力の育成」が重視される傾向にあります。
しかし、露伴の思想に照らせば、それだけでは国の未来は育たないことがわかります。
短期的な成果よりも、長期的な可能性を育てる教育こそが、真の意味での「国の力」を高めます。
一人ひとりが自分の可能性を信じ、伸ばし、他者とともに生きる社会。
それが、露伴の描いた理想の国家像なのです。
おわりに:国家の未来は、個人の中にある
幸田露伴の『努力論』は、一人の人間の生き方を超えて、国家の哲学にまで踏み込んだ作品です。
「国民の可能率向上は国家を発展させる」──この言葉は、
「一人の努力が、社会全体を変える」という普遍の真理を語っています。
教育者・政治家・企業人──立場は違っても、
「人を伸ばす」という志を持つ者こそが、未来を創る人です。
