「正義を振りかざす限り、争いは終わらない」――カーネギーが語る、労使関係に必要な“理性の対話”
「ストライキ」も「ロックアウト」も、正義では解決しない
アンドリュー・カーネギーは『富の福音』の中で、
当時頻発していたストライキやロックアウトについてこう語っています。
「ストライキであろうが、ロックアウトであろうが、それじたいバカげている。」
強い言葉に聞こえますが、そこに込められた意図は明確です。
それは、労使の争いを“正義の対立”として扱う限り、永久に解決しないという警鐘でした。
「正義」をめぐる闘争は、どちらも勝者になれない
カーネギーは続けます。
「失敗しようが成功しようが、正しいか正しくないかが直接的に証明されることはない。
ただ単に、労使のあいだでどちらが強いかを問題にしているにすぎない。」
ストライキは「労働者の正義」、
ロックアウトは「経営者の正義」を主張する手段ですが、
そのどちらも、“どちらが耐えられるか”という我慢比べにすぎないと彼は見抜いていました。
正義を争う構図は、実は力のぶつかり合いに過ぎず、
相互理解も、持続的な解決も生まれません。
カーネギーの比喩:「中世の決闘」と同じ
この労使対立の構図を、カーネギーは鮮やかな比喩で表現しました。
「ストライキやロックアウトが、どちらが正しく、どちらが公平か決着つける手段として無意味であるのは、
ヨーロッパ中世の果たし状や決闘とおなじである。」
かつて中世では、
“神の名のもとに戦い、勝った方が正しい”と信じられていました。
だが、現代社会において、暴力や力で正義を決めることは愚かである。
それにもかかわらず、労使間ではいまだに
「誰が正しいか」を“力”で証明しようとしている――
この点を、カーネギーは痛烈に批判したのです。
真の進歩とは「対立」から「理解」への転換
カーネギーは、労使関係を根本的に変えるには、
「正義」ではなく「理解」を軸にするべきだと考えていました。
「労使間で恒久的な調停が成立したと結論づけるのは時期尚早であり、愚かなことだ。」
つまり、調停や対話の仕組みを一度つくったからといって、
それで終わりではないということです。
人と人との関係が変化するように、
労使関係も常に調整が必要です。
そのために欠かせないのは、
「正しい/間違っている」という二元論ではなく、
お互いの立場を理解しようとする姿勢なのです。
「勝ち負け」ではなく「共存」を目指す
カーネギーは、争いをゼロにすることはできないと理解していました。
しかし、争いの質を変えることはできると信じていました。
彼の思想の根底には、次のような信念があります。
「資本も労働も、共に社会を支える“同じ椅子の脚”である。」
(※関連:『三脚椅子のたとえ』より)
どちらかが勝てばどちらかが負けるという発想ではなく、
双方が共に成長し、利益を分かち合う構造を目指すべき。
それが、彼の考える持続可能な資本主義でした。
現代にも通じる「対立の時代」への示唆
現代社会においても、
「正義 vs 正義」の構図は至るところに見られます。
・労働組合と企業の対立
・政治的なイデオロギーの衝突
・SNSでの“誰が正しいか”論争
しかし、どれだけ議論を重ねても、
相手を“間違っている”と決めつける姿勢では、
理解も信頼も生まれません。
カーネギーの言葉は、
私たちが現代に生きるうえでも極めて示唆的です。
「正義を問題にしていては、争いはなくならない。」
その代わりに、問うべきはこうです。
「どうすれば共に良くなれるか?」
まとめ:力ではなく、理解で社会を築く
アンドリュー・カーネギーの思想は、
単なる経営論を超えた“人間の知恵”です。
「ストライキもロックアウトも、中世の決闘と変わらない。」
正義を主張し、相手を責めるのではなく、
互いに耳を傾け、共通の目的を見出すこと。
それこそが、労使関係を平和へ導く唯一の道だと、
カーネギーは100年前にすでに見抜いていました。
現代のリーダーや働くすべての人に問われているのは、
“誰が正しいか”ではなく、
“どうすれば共に立てるか”――
その問いへの答えを、私たちは再び見つめ直す必要があるのです。
