『お金は「モノ」なのか――アリストテレスが語る貨幣の本質』
ミダス王とアリストテレスの問い
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、『政治学』の中でミダス王の寓話を引用しながら、「飢え死にするほどの富とは奇妙である」と述べている。黄金をいくら持っていようとも、人はそれを食べることはできない。つまり、貨幣や富は人間の生存に直接寄与しない――それが、アリストテレスの出発点である。
貨幣の誕生は「交換の必要」から
アリストテレスによれば、初期の共同体ではモノは共同所有されていたが、共同体が分離し、家や部族ごとに独立して暮らすようになると、互いの不足を補うために「物々交換」が始まった。食料を酒に、道具を衣服に交換する――それが経済の原初形態である。しかし、共同体の範囲が広がり、都市国家どうしの取引が生まれると、物々交換では不便が生じた。持ち運びが容易な共通の「代替物」が必要になったのだ。
刻印が生んだ「価値の印」
そこで登場したのが貨幣である。アリストテレスは、鉄や銀などの金属に「刻印」を押すことで、交換価値を示す仕組みが生まれたと説明する。もとは重さで価値を量っていたが、秤で量る手間を省くために「100」「1000」といった刻印を押すようになった。つまり貨幣とは、交換を容易にするために「人工的に作られたモノ」であるというのが、アリストテレスの貨幣観であった。
お金は「自然の産物」ではない
アリストテレスは、貨幣を「人が定めたものであり、自然には何ものでもない」と語る。もし人々が貨幣を捨て去り、別のものを採用すれば、それはただの塵に等しい。実際、どれほどの貨幣を持っていようと、食料が手に入らなければ飢えるしかない。ミダス王が黄金に囲まれながら死に至ったように、貨幣とは人の約束に支えられた虚構の価値にすぎない。
「お金はモノか」という問い
紙幣や硬貨は確かに物理的なモノである。しかし、それ自体に価値があるわけではない。私たちは「100円玉=100円分の価値がある」と信じているが、その価値は社会的な合意の上に成り立っている。貨幣の本質は、物質そのものではなく「交換を可能にする信頼の記号」だといえる。
現代にも生きるアリストテレスの洞察
お金をモノと錯覚すると、ミダス王のように本質を見失う。貨幣は富そのものではなく、富を生み出す交換の仕組みの潤滑油である。アリストテレスの言葉は、二千年以上を経た今もなお、「お金とは何か」という問いを私たちに突きつけている。
