『アダム・スミスと貨幣の誤解 ― お金はモノなのか』
分業が生んだ「交換」の必然
アダム・スミスは『国富論』において、人間社会の豊かさは「分業」によって生まれると説いた。
それぞれが得意分野に特化することで生産性が高まり、国全体の富が増えていくという考え方である。
しかし、分業が進むほど、人は自ら必要なモノやサービスをすべて作り出すことができなくなる。
結果として、人々は他者とモノを交換し合う「物々交換」の関係に入らざるを得なくなる。
ここから、スミスは貨幣の起源を見出した。
物々交換の不便が生んだ「お金」
スミスによれば、人々は次第に交換を円滑にするための「共通の商品」を求めるようになった。
塩、貝殻、砂糖、タバコ――保存が利き、扱いやすいものが交換の媒介として使われた。
やがて腐らず、分割が可能な金属がその役割を担い、金や銀が価値の基準として定着する。
この金属に公的な刻印を押すことで、重量を量る手間を省いたのが「貨幣」であった。
スミスは、貨幣を「商業の用具」と位置づけ、人間の経済活動を支える道具とした。
「お金=モノ」という誤解
一見、説得力のあるこのストーリーだが、実際の歴史とは異なる。
スミスが前提とした「物々交換の社会」は、実証的には存在しなかったのである。
確かに異なる部族や国家間では物々交換が行われたが、共同体の内部では贈与や分配が中心だった。
「物々交換の発展形として貨幣が誕生した」という説明は、人類史の実態を反映していない。
それでも私たちは、「お金はモノだ」と信じ込んでいる。
紙幣や硬貨を「モノ」として貯め込むことで、安心感を得ているのかもしれない。
現代社会における「非モノ」としての貨幣
銀行預金や電子マネーなど、現代のお金の多くは実体を持たないデータである。
それでも私たちは、それらを使って確かにモノやサービスを得ている。
もし貨幣が単なる「交換用の商品」であるなら、デジタルデータでの取引は成立しないはずだ。
お金とは、実は社会的な「信用」の仕組みであり、モノのように所有する対象ではない。
お金を「道具」ではなく「約束の記録」として捉えること――
そこに、スミスが描けなかった現代経済の核心があるといえる。
