「耳に痛いことを言ってくれる人とつきあえ②」——厳しい忠告を受け入れる心を育てよう
「耳に痛いことを言ってくれる人とつきあえ②」——愛の忠告を受け入れる力
詩篇141篇5節には、次のような祈りが記されています。
「正しい人が私を打つならば、それは恵み。
彼が私を戒めるならば、それは油のようだ。
私の頭はそれを拒まない。」
この言葉は、前回(箴言18章24節)の「耳に痛いことを言ってくれる人とつきあえ①」に続く、**「忠告を受け入れる者の姿勢」**を教えています。
人は誰でも、批判や指摘を受けると心がざわつきます。
しかし、詩篇の作者ダビデは、「愛を持って厳しいことを言ってくれる人を拒まないように」と祈りました。
つまり、本当の成長とは、耳の痛い忠告を“感謝の心”で受け入れるところから始まるのです。
愛の忠告を「攻撃」と勘違いしてしまう私たち
忠告を受けたとき、最初に湧き上がるのは防衛反応です。
「そんなつもりじゃない」「自分は悪くない」——。
しかし、それは相手の言葉を拒否しているのではなく、
自分の“プライド”を守ろうとしているのです。
詩篇141篇5節の作者は、この「プライドの壁」をよく理解していました。
だからこそ、こう祈ったのです。
「正しい人が私を打つなら、それは恵みだ。」
つまり、「愛のある忠告は痛みを伴うが、それは自分を成長させる贈り物だ」という意味です。
「誰が言うか」ではなく、「どんな心で言っているか」を見る
忠告を受けるとき、つい「誰が言っているか」で受け取り方が変わってしまうことがあります。
親しい人の言葉なら素直に聞けても、苦手な人の指摘だと反発してしまう——そんな経験は誰にでもあるでしょう。
しかし、本当に大切なのは、**「その言葉の根底に愛があるか」**です。
たとえ伝え方が不器用でも、
あなたを思って言ってくれる忠告なら、それは心に留める価値があります。
逆に、悪意や嫉妬から生まれた批判なら、受け流しても構いません。
「耳に痛いけれど、確かに自分のためになっている」と感じる言葉には、
あなたを磨くための“神の恵み”が隠されているのです。
拒否したくなる瞬間こそ、心が試されている
詩篇の作者は、こうも祈っています。
「私は、愛を持って厳しいことを指摘してくれる人を拒否することがないように。」
これは、実はとても深い祈りです。
なぜなら、忠告を「拒否する」か「受け入れる」かは、
その人の心の成熟度を表すからです。
怒りや恥ずかしさ、悔しさが湧き上がるその瞬間こそ、
自分の心が鍛えられるチャンスです。
その痛みを逃げずに受け止め、
「この言葉の中に何を学べるか?」と自問できる人が、
次のステージに進んでいくのです。
忠告を受け入れる人が成長する理由
忠告を受け入れる人と、拒む人。
この違いは、やがて大きな差を生みます。
- 忠告を受け入れる人 → 新しい視点を得て、成長する
- 忠告を拒む人 → 同じ失敗を繰り返し、孤立する
つまり、忠告とは「自分では見えない部分を照らしてくれる鏡」。
それを受け入れる人は、他人の目を通して自分を磨くことができるのです。
詩篇141篇5節にあるように、
**「正しい人の戒めは、私にとって香油のようだ」**という感覚を持てたとき、
人は内面から輝き始めます。
「愛の忠告」を受け取るための3つの心がけ
忠告を拒否せず、成長の糧に変えるためには、
次の3つの姿勢を意識するとよいでしょう。
① 感情でなく、意図で受け取る
言葉のトーンではなく、「なぜその人はそう言ったのか」に注目しましょう。
たとえ厳しい言い方でも、愛の意図があるなら受け取る価値があります。
② 感謝をもって受け止める
「私のためを思って言ってくれたのだ」と考えるだけで、心の反応が変わります。
感謝の気持ちは、素直さを育てます。
③ 祈りの中で吟味する
聖書の作者のように、「この言葉を拒んでいないか」と静かに祈る時間を持ちましょう。
心を見つめ直すことで、受け入れる力が少しずつ育っていきます。
終わりに:耳の痛い言葉は、魂を磨く贈り物
詩篇141篇5節の祈りは、こう語ります。
「正しい人が私を戒めるなら、それは油のようだ。私の頭はそれを拒まない。」
つまり、「忠告を拒まない心」こそ、真の知恵のしるしなのです。
愛ある指摘は、あなたを責めるためではなく、育てるために与えられたもの。
痛みを伴うかもしれませんが、それは成長のサインです。
まとめ
- 忠告を拒むのはプライド、受け入れるのは知恵
- 愛のある言葉は、痛くても心を成長させる
- 「拒否しない心」があなたを高める
今日、誰かの言葉に少し引っかかることがあったら、
すぐに反論するのではなく、一度静かに受け止めてみてください。
もしかしたらそれは、あなたの人生をより良くするために
神が与えてくださった“愛の忠告”かもしれません。
