すべてはつながっている──『菜根譚』に学ぶ“万物同根”の生き方
万物は異なって見えても、本質は同じ
『菜根譚』の後集八七には、こんな一節があります。
この宇宙に存在するすべての物、人間関係におけるさまざまな感情や社会の中で起こる出来事は、一般人の視点から見れば、それぞれに異なって見える。
しかし、世の中の道理を悟った達人にとっては、すべてが同じにしか見えない。
私たちは日常の中で、「これは良い」「あれは悪い」「この人は合う」「あの人は合わない」と、
あらゆるものを区別して生きています。
しかし、菜根譚のこの言葉は、「それらはすべて同じ源から生まれたものだ」と諭します。
この考え方は、東洋哲学における**「万物同根」**、つまり「すべての存在は同じ根を持つ」という思想に通じています。
人も自然も出来事も、表面上は違って見えても、その根本には“同じ命の流れ”があるのです。
違いを越えて、つながりを感じる心
たとえば、人間関係の中で対立や誤解が起こるのは、
「自分」と「相手」を切り離して考えるからです。
でも、相手も同じように喜び、怒り、迷いながら生きている。
そこに気づけば、敵意や嫉妬は少しずつ和らいでいきます。
『菜根譚』が説く「万物は本質的に同じ」という視点は、
相手との違いよりも、共通点を見ようとする心を育てる教えです。
これは仏教でいう「一切皆空(いっさいかいくう)」や、
老荘思想の「天地と我と同根なり」という考えにも通じます。
つまり、“分け隔てない心”こそが、真に自由な心なのです。
比較と選別が、心を苦しめる
現代社会は、常に「差」を意識させる構造になっています。
成績や収入、フォロワー数、外見、キャリア──
私たちは気づかぬうちに、自分と他人を比べて一喜一憂しています。
しかし、『菜根譚』の達人のように「すべては同じ」と悟れば、
比較する必要も、焦る理由もなくなります。
たとえば、他人の成功を見て落ち込むとき。
「その人も同じ生命の一部であり、自分とつながっている」と考えるだけで、
嫉妬ではなく尊敬の気持ちに変わるかもしれません。
区別や選別は、世界を理解するための手段でもありますが、
それにとらわれすぎると、本質を見失います。
“違い”を越えて、“同じ命”を感じ取るとき、心は穏やかになります。
自然に学ぶ「同根の感覚」
この教えをより身近に感じるためには、自然を観察するのが一番です。
木々、風、川、鳥、すべてが異なるようでいて、実は互いに支え合っています。
木は土から栄養をもらい、風は木々の間を抜け、川は命を運ぶ。
そこに「優劣」も「比較」もありません。
同じように、人間社会でもそれぞれが役割を持ち、つながっています。
誰かが表舞台で輝くのも、誰かが裏で支えているから。
この関係性を理解できれば、他者を否定する必要がなくなります。
つまり、「万物は同じである」と悟るとは、
世界を敵ではなく仲間として見る視点を持つことなのです。
「悟る」とは、すべてを受け入れること
『菜根譚』の言う「悟り」は、特別な宗教的境地ではありません。
それは、“ありのままを受け入れる心”のことです。
良いことも悪いことも、成功も失敗も、
どれも人生の一部として平等に意味がある。
そのように受け止めることができれば、心は波立たなくなります。
「万物同根」を理解するということは、
どんな出来事にも感謝できる心を持つことでもあります。
悲しみも苦しみも、同じ生命の流れの中に存在する。
そう気づいたとき、私たちはようやく“区別のない安らぎ”を得られるのです。
まとめ:違いを越えたところに、真の調和がある
『菜根譚』の「万物の本質は同じであると悟る」という教えは、
分断や競争が強まる現代にこそ、必要な思想です。
私たちはつい、「自分と他人」「成功と失敗」「上と下」といった区別で世界を見てしまいます。
しかし、すべての存在が同じ根から生まれたと理解できれば、
他者を批判せず、自分を責めず、穏やかに生きることができます。
外の違いに惑わされず、内なる“つながり”を見る。
それが、『菜根譚』が示す「悟り」の第一歩です。
