『アリストテレスが見誤ったお金の本質 ― 貨幣は「信用の記録」である』
お金に取り憑かれた人間の心理
アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンは「1ペニーの節約は、1ペニーの所得である」と語った。
人はお金を貯めれば将来の安心を得られると信じ、必要がなくても蓄えようとする。
不安が蔓延する社会では、この傾向はいっそう強まる。
やがて、人はモノを買うためではなく「お金そのもの」を増やすために働き始める。
この「取財術」をアリストテレスは厳しく非難した。
しかし、彼自身もまた「お金とは何か」を正確に理解していたわけではなかった。
アリストテレスの誤解 ― お金はモノではない
アリストテレスは『政治学』の中で、貨幣を「富そのもの」とみなし、
それを増やす行為を「自然に反する」とした。
しかしこの発想には、根本的な誤りがある。
お金はモノでも財産そのものでもなく、実際には「債務と債権の記録」にすぎない。
つまり、お金とは「誰かが借り、誰かが貸した」という関係を表す符号であり、
物質的な実体は本質ではないのだ。
債権と債務の関係が生む「お金」
A氏がB氏に100万円を貸したとき、A氏は債権者、B氏は債務者となる。
貸した瞬間に「債権」と「債務」は同時に生まれ、両者の金額は常に一致する。
この関係が社会全体に網の目のように広がることで、経済は成立している。
つまり、お金とは「信用のネットワーク」を可視化したものであり、
それ自体に価値があるわけではない。
メソポタミアに見る「お金の原型」
貨幣が金属として形を持つようになったのは古代ギリシャだが、
お金という概念自体はさらに古く、メソポタミア文明にその原型がある。
粘土板に刻まれた楔形文字には、「誰が誰に小麦を借りたか」という記録が多数残されている。
それはまさに、債務と債権を記した「信用の証書」であった。
粘土板を持つ者が債権者であり、それを別の人に譲渡することで取引が成立する。
現代の小切手や銀行預金と同じ仕組みである。
お金とは、銀や金のようなモノではなく、社会の中で共有された「約束の記録」だったのだ。
信用が生む豊かさ
アリストテレスもスミスも、お金を「交換の道具」と見なした。
だが、貨幣の本質はもっと深い。
お金とは、人と人との信頼を可視化する記録体系であり、
それを通じて社会全体の経済が循環している。
貨幣の価値は、そこに込められた「信用」にこそ宿るといえる。
お金をモノとしてではなく、関係性の記録として見つめ直すとき、
人類の経済は新たな意味を帯びて見えてくる。
