コロナ禍の「貸付」は国家による責任放棄である
「店を閉めろ、でも金は貸すだけ」という理不尽
あのパンデミックの記憶を、私たちはどう総括すべきだろうか。国は感染拡大を防ぐため、国民に行動制限を求め、飲食店や商店には営業停止を事実上の命令として突きつけた。ロックダウンに近い状態を強いておきながら、その対価として用意されたのは「十分な補償」ではなく、多くの場合は「貸付」であった。「店を開けるな、収入を断て」と命じておきながら、生活したければ「借金しろ」と言う。これほど理不尽な話があるだろうか。本来であれば、国策として営業を止めさせた以上、そこで生じた民間の損失は国が全額補償するのが筋である。借金を背負わせるのではなく、給付で穴埋めをする。それが国家としての最低限の責任だったといえる。
政治家が怯えた「100兆円」の正体
当時、「民間の資金不足を補うには100兆円規模の補正予算が必要だ」という声があった。しかし、与党も野党もその巨額な数字に恐れをなし、思い切った提案ができずにいた。「そんな財源がどこにある」という平時の思考から抜け出せなかったのだ。だが、この懸念は無用だったといえる。なぜなら、政府には通貨を発行する権限があるからだ。財源がないなら、国債を発行して新たにお金を生み出せばいい。家計や民間企業とは違い、政府はお金を作ることができる。その特権を使えば、増税など一切せずに、必要な100兆円を用意し、国民の生活を底支えすることは十分に可能だったのである。
「見えない戦争」で武器を出し惜しんだ罪
コロナ禍とは、いわば「見えない敵との戦争」であった。ウイルスという敵が街を襲い、商店街は絨毯爆撃を受けたかのようにシャッター街と化した。非常時においては、平時の財政規律など無視してでも国民の命と暮らしを守り抜くのが政治の役割だ。必要であれば、禁じ手とされる「国債の日銀引受」、つまり中央銀行に直接国債を買い取らせて即座に現金を供給する手法をとっても許される局面だったはずだ。目の前で市民が経済的な死に直面している時に、「財政の健全性」を気にして武器であるお金を出し惜しむなど、指導者としてあるまじき怠慢である。
お金で救えたはずの未来
残酷な言い方になるが、コロナ禍の経済苦は「お金さえ刷れば解決できる問題」だった。血を流す戦争とは違い、営業補償と生活保障という「金」があれば、廃業も自殺も防げた悲劇は山ほどあったはずだ。それを行わなかったのは、政治家の無知と臆病さが原因である。この失政を教訓とし、「非常時には国が通貨を発行して国民を救う義務がある」という事実を、私たちは深く胸に刻んでおく必要があるだろう。
