「偏見を持つな」──違いを超えて人を見つめる、キリストのまなざし
偏見を持つな──違いを超えて人を見つめる、キリストのまなざし
私たちは無意識のうちに、「自分とは違うもの」を判断しがちです。
それが文化や考え方、あるいは出身・性別・宗教の違いであれ、
“違い”はしばしば壁をつくります。
しかし、偏見は人の目を曇らせ、真実を見る力を奪うものです。
使徒パウロは、ローマ人への手紙でこう語りました。
「私は主イエスにあって確信している。
どんなものも、それ自体で汚れてはいない。
ただ、あるものを汚れていると思う者にとってのみ、それは汚れている。」
(ローマ人への手紙 14章14節)
「汚れている」と思う心が、世界を汚す
パウロのこの言葉は、宗教的な戒律や食物の問題を超えて、
人間の偏見の本質を突いています。
「これは良い」「あれは悪い」
「この人は正しい」「あの人は間違っている」
そうした判断は、しばしば自分の基準によって作られたものです。
つまり、問題は“相手”ではなく、それを見る自分の心にあるのです。
偏見は、相手を汚す前に、まず自分の心を汚します。
なぜなら、偏見とは「自分を正しい側に置く」ことだからです。
神の目には、すべての人が等しく尊い
聖書が繰り返し語るのは、神の前では誰もが平等であるということ。
神は、国籍・性別・身分・能力では人を区別しません。
人間が勝手に作った境界線を、神は見ていないのです。
「神はえこひいきなさらない。」(ローマ2章11節)
もし神のまなざしがそうであるなら、
私たちもまた、同じように他者を見る努力をすべきです。
相手を“カテゴライズ”する前に、
まず一人の人間として尊重する心を持ちたい。
それが、キリストの愛に基づく生き方です。
偏見の根は「恐れ」と「無知」
人が偏見を持つのは、しばしば“知らないこと”への恐れからです。
- 自分と違う考えを持つ人を理解できない
- 習慣の違いに戸惑いを感じる
- 「もし相手が間違っていたら」と不安になる
しかし、恐れがあるところに愛は育ちません。
そして、愛のないところに偏見が生まれます。
だからこそ、知ろうとすること・聴こうとすることが大切なのです。
理解は、偏見を溶かす光になります。
「キリストの思い」にあるのは、完全な受容
パウロは言います。
「私が信じるキリストの思いの中に、そのような偏見はない。」
キリストは、罪人・病人・外国人・女性・子ども──
あらゆる人を分け隔てなく愛しました。
その愛は、“違い”をなくす愛ではなく、
違いをそのまま受け入れる愛です。
人はそれぞれ異なる存在であることを、神が望まれている。
だからこそ、誰もがそのままで尊いのです。
おわりに──「汚れている」のは人ではなく、偏見の心
偏見とは、「自分の中にある狭さの鏡」です。
それを認め、手放していくことこそ、
神の愛に生きる第一歩です。
「どんなものも、それ自体で汚れてはいない。」
そう信じるとき、世界は少し優しく見える。
偏見を捨てることは、
自分の心に自由と平和を取り戻すことでもあります。
さあ、今日から少しだけ、
「自分とは違う誰か」を、ありのままに見つめてみましょう。
そこに、神のまなざしと同じ“受容の光”が宿っています。
