「他人を裁かない」——人を非難する前に、自分の心を見つめ直す
「他人を裁かない」——人を責めるとき、私たちは何を見失っているのか
ローマ人への手紙2章1節には、次のような言葉があります。
「だから、あらゆる人を裁く者よ、あなたに弁解の余地はない。
他人を裁くことで、あなたは自分を罪に定めている。
なぜなら、あなたも同じことをしているからだ。」
この聖句は、非常に鋭く、そして普遍的な警告です。
それは、**「他人を裁く者は、自分自身をも裁いている」**ということ。
つまり、他人の欠点を指摘しているその口が、
実は自分の傲慢さや未熟さを暴いてしまっているのです。
人は、他人の欠点ほどよく見える
他人の行動や発言を見て、
「どうしてあんなことをするんだろう」
「常識がない」「無責任だ」
そう思ったことは誰にでもあるはずです。
しかし、その瞬間、私たちは無意識に
**「自分のほうが上」**という立場に立っています。
人を裁くということは、
「私は正しい」「あなたは間違っている」と宣言する行為だからです。
けれども、ローマ人への手紙は、
その考えこそが“愚かさの証”だと指摘します。
なぜなら、人はみな、同じような過ちを犯す存在だからです。
「自分は例外」と思っていないか?
他人のミスには厳しく、自分の過ちは軽く見てしまう。
これは誰にでもある心の傾向です。
たとえば、
- 他人の遅刻には腹を立てるのに、自分が遅れたときは「仕方なかった」で済ませる。
- 他人の陰口は嫌うのに、自分が愚痴を言うのは「ストレス発散だから」と正当化する。
これがまさに、聖書が言う「自分を棚に上げる」という状態です。
**「自分だけは例外」**と思う心が、他人を裁く心を生み出すのです。
でも、よく考えてみてください。
あなたが他人を非難するとき、その根底には何がありますか?
それは、多くの場合、自分の正しさを証明したい欲求です。
「自分は間違っていない」と思いたいから、人の欠点を探して安心するのです。
裁くよりも、理解しようとすること
人を裁く代わりに、「なぜそうなったのか」を考えてみましょう。
誰も、最初から悪意を持って行動しているわけではありません。
その背景には、
- 知らなかったから
- 余裕がなかったから
- 誰かを守ろうとしていたから
といった理由があることも多いのです。
つまり、他人の行動を「悪」と決めつける前に、
理解しようとする姿勢を持つことが、真の成熟なのです。
そして、その姿勢はやがて、
他人だけでなく、自分自身に対しても優しくなれる力になります。
他人を裁く人は、結局「自分」を追い詰める
人を非難する心を持つ人ほど、実は自分にも厳しすぎます。
他人に完璧を求める人は、無意識に自分にも同じ完璧を求めてしまうからです。
そして、自分が少しでも失敗すると、
「なんで自分はこんなこともできないんだ」と責めてしまう。
人を裁くという行為は、
刃を外に向けているようで、実は自分に向けているのです。
他人を赦せる人ほど、自分をも赦せる。
だからこそ、他人を裁かないことは、
自分を癒すことにもつながるのです。
「裁かない心」を育てる3つのステップ
① 「自分も同じことをしていないか?」と問い直す
誰かの行動に腹が立ったとき、その感情の前に一呼吸。
「私も似たようなことをしていないだろうか?」と内省してみましょう。
② 批判よりも理解を選ぶ
人を責めるのではなく、「この人はなぜそうしたのか?」と想像する。
理解する姿勢が、他人を変える第一歩です。
③ 完璧を求めず、「人間らしさ」を受け入れる
人は誰でも間違えるもの。
欠点があるからこそ、互いに支え合える。
その前提を忘れないことが大切です。
終わりに:裁かない心が、人間関係を柔らかくする
ローマ人への手紙2章1節は、
「他人を裁くとき、あなた自身も裁かれている」と語ります。
つまり、人を非難することで、
あなたは自分の未熟さをさらしてしまうということ。
人間関係を円滑にする鍵は、完璧さではなく寛容さです。
他人の欠点を見つけるよりも、
その人の中にある良い部分を見つける努力をしてみましょう。
その優しいまなざしこそ、
あなたの人生を豊かにし、平和をもたらす力となるのです。
まとめ
- 他人を裁くことは、自分の傲慢さを映す鏡
- 誰もが間違いを犯す「五十歩百歩」の存在
- 裁くより、理解し、赦すことが真の強さ
今日、もし誰かの言動に苛立ちを感じたら、
心の中でこうつぶやいてみてください。
「自分も人間。相手も人間。」
その一言が、あなたの心を柔らかくし、
周囲との関係に穏やかな光をもたらすはずです。
