「人の不幸を喜ぶな」――新渡戸稲造『世渡りの道』に学ぶ、品格ある人間関係のつくり方
「人の困難を喜ぶ」心は、自分を貶める
新渡戸稲造は『世渡りの道』の中で、こう述べています。
ふだん快く思っていない人が何か困難に出会うと、私たちはよく「いい気味だ」などといって喜ぶが、その反対に、「気の毒だ」「かわいそうだ」などと思うことは少ない。
この一文は、人間の弱さを鋭く突いています。
誰かの失敗や不運を見て、内心で少しホッとしたり、「ざまあみろ」と思ったり――そんな気持ちは、多かれ少なかれ誰にでも起こるものです。
しかし、新渡戸はその感情を**「下劣な心」**と断じています。
人の困難を見て喜んでいるようでは、下劣な感情に満たされるだけだ。
他人の不幸を喜ぶ心は、一瞬の快楽を与えるように見えて、
実際には自分の心を蝕む毒でしかないのです。
「他人の困難=自分の優越」ではない
私たちが他人の不幸を喜ぶとき、その奥にあるのは「比較の心」です。
- 「あの人より自分のほうがまだマシだ」
- 「うまくいかない姿を見て安心する」
つまり、他人の不幸を自分の幸福の材料にしているのです。
しかし、新渡戸はこの考えを徹底的に否定します。
他人が困ることは少しも自分の利益にはならない。そこには喜ぶべき理由など何もないのだ。
誰かが失敗しても、あなたの実力が上がるわけではない。
誰かが落ちても、あなたが幸せになるわけではない。
人の不幸を喜ぶことには、合理的にも道徳的にも、何の意味もないのです。
「困難を笑う人」と「困難に寄り添う人」
新渡戸が重視したのは、「人間の品格」です。
品格のある人は、他人の失敗や苦境に対しても、心を動かされる方向が違うのです。
- 下劣な人 → 「いい気味だ」と心の中で笑う
- 品格ある人 → 「気の毒だ」「手を差し伸べられないか」と思う
同じ出来事を見ても、心の向きが違えば、人格の深さもまるで違う。
そして、どんな人であっても、困難に遭ったときに「笑われる人」ではなく、「支えられる人」でありたいはずです。
「他人の困難」は、あなたの明日の鏡
新渡戸は言います。
他人に降りかかってきた困難は、いつ自分の身に降りかかってこないともかぎらない。
この一文には、人間の共通の脆さへの洞察があります。
今日の他人の失敗は、明日の自分の姿かもしれない。
人生には常に浮き沈みがあり、誰も例外ではありません。
だからこそ、他人の困難を笑うのではなく、
「もし自分だったらどう感じるか」と想像することが大切です。
それが思いやりの第一歩であり、人間的な成熟なのです。
嫉妬や悪意は「心のエネルギーの無駄遣い」
人の不幸を喜ぶ気持ちの根底には、嫉妬や劣等感があります。
しかし、他人を下げようとする感情は、最終的に自分の時間とエネルギーを浪費します。
嫉妬や悪意に心を奪われていると、
- 自分の目標に集中できなくなる
- 心が常に不安定になる
- 他人の成功を素直に祝えなくなる
結果として、自分自身の成長が止まってしまうのです。
新渡戸が「下劣な感情に満たされるだけ」と言ったのは、
まさにこの“心の浪費”を戒めてのことです。
「喜び」は、人の幸せを分かち合うときに増える
他人の困難を喜ぶ代わりに、他人の幸せを喜べる人でありたい。
それこそが、新渡戸稲造の説く「世渡りの道」の核心です。
人の幸せを自分の喜びにできる人は、
- 心が豊かで、
- 人からも信頼され、
- 人生の幸福度が高い。
心理学でも、「人の幸せを喜べる人ほど幸福感が高い」という研究結果があります。
つまり、善意は自分の幸福を増やす最高の投資なのです。
現代社会へのメッセージ
SNSやニュースでは、誰かの失敗や不祥事が瞬時に拡散され、
それに乗じて嘲笑や批判の声が飛び交います。
しかし、その瞬間、私たちは新渡戸の言う“下劣な感情”に近づいているかもしれません。
匿名の言葉一つが、誰かを傷つけ、自分の心も濁らせる。
そんな時代だからこそ、
「人の困難を喜ぶのは最低だ」
という新渡戸の言葉は、より重みを増しています。
まとめ:他人の不幸ではなく、他人の幸福を喜べ
新渡戸稲造のこの教えは、
人間の本能に抗い、心の品格を磨くための道標です。
- 人の困難を喜ぶのは、心の貧しさの表れ
- 他人の苦しみは、自分の明日の姿かもしれない
- 思いやりは、心を豊かにし、自分を守る力になる
他人の失敗を笑うより、成功を讃えよう。
誰かの苦しみを見て笑うより、そっと寄り添おう。
そうした一つひとつの態度が、あなたの「人格の深さ」を育てていく。
新渡戸稲造の言葉は、今もなお――
「人の心の美しさこそ、最高の世渡り術である」
と静かに教えてくれます。
