感情にも「教養」と「訓練」が必要?幸田露伴『努力論』が教える心を磨く学び方
感情にも「教養」と「訓練」が必要だという視点
「知識には教養が必要だ」というのは、誰もが納得する考え方です。
しかし、幸田露伴はそのさらに先を見据えていました。
彼は『努力論』の中でこう断言しています。
低級な知識をもった人間が一億人一致したとしても、その知識は何の権威もない。
同様に、低級な感情をもった人間が一億人一致したとしても、その感情はまったく価値がない。
そして続けます。
知識に教養と訓練が必要であるように、感情にも教養と訓練が必要なのだ。
この一節には、**「感情も学び、鍛えられる能力である」**という、極めて先進的な考え方が込められています。
「多数の感情」が必ずしも正しいとは限らない
露伴のこの章が特に示唆に富むのは、「多数派の感情」を批判している点です。
現代のSNSや世論を見ても、群衆の感情が一方向に傾くことは少なくありません。
しかし、**「多くの人がそう感じている」=「正しい感情」**とは限らない。
もしその感情が怒りや嫉妬、見下しなど低級なものであれば、
たとえ一億人が共有しても、それは「価値のない感情」に過ぎないと露伴は言います。
この指摘は、感情が集団的になる現代社会においても驚くほど通用します。
感情を「流されずに見極める力」が、成熟した人間に求められるのです。
感情の「教養」とは何か?
露伴のいう「感情の教養」とは、単なる知識やマナーのことではありません。
それは、自分の感情を理解し、他者の感情に配慮できる心の知性のことです。
現代的に言えば、これは「EQ(Emotional Intelligence:感情知性)」に通じる考え方です。
感情の教養を身につけた人は、
- 感情に振り回されず、落ち着いて判断できる
- 他者の気持ちを尊重しながら行動できる
- 喜び・悲しみ・怒りなどを深く理解し、言葉にできる
つまり、知識よりも「人間としての品格」を決める要素になるのです。
感情にも「訓練」が必要な理由
感情は本能的なものですが、訓練によって洗練させることができると露伴は説きます。
では、その「訓練」とはどのようなものなのでしょうか?
1. 自分の感情を観察する
怒りや不満を感じたとき、「なぜ自分はそう感じたのか?」を見つめ直す。
自己観察が、感情の質を高める第一歩です。
2. 感情を言葉で表現する
モヤモヤしたままにせず、「悲しい」「悔しい」「寂しい」など、言葉にすることで感情は整理されます。
感情を表現する力も、訓練によって磨かれます。
3. 感情の“反応速度”をゆるめる
瞬間的に反応せず、一呼吸おいてから対応する。
「反射」ではなく「選択」で感情を扱えるようになると、心が成熟していきます。
感情を磨くことが、人間としての「努力」
幸田露伴は『努力論』の中で、「努力」とは肉体的・知的な修練だけでなく、感情を高める努力でもあると説きます。
知識は本を読めば身につくかもしれません。
しかし感情は、日々の人間関係や経験の中で鍛えられるものです。
怒りを抑える努力、嫉妬を乗り越える努力、悲しみを受け止める努力。
それらの積み重ねが「感情の教養」を育てていきます。
露伴の言葉を借りるなら、
「感情も鍛えられる知性である」
ということなのです。
まとめ:感情を鍛えることが“本当の学び”
幸田露伴の「感情にも教養と訓練が必要だ」という言葉は、
単に道徳を説くのではなく、人間の成長の本質を突いています。
知識を増やすだけでなく、感情を磨く。
それこそが、社会の中で信頼され、温かい人間関係を築くための土台です。
現代の私たちもまた、感情を学び、訓練し、育てていく努力を忘れてはならないのです。
