「すべては愛に帰結する」──人が生きる目的は、結局“愛”にたどり着く
すべては愛に帰結する──人が生きる目的は、結局“愛”にたどり着く
人間社会には、古今東西を問わず「守るべきルール」や「道徳」があります。
旧約聖書の「十戒」にも、「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」など、
人としての基本的な戒めが並んでいます。
けれども、新約聖書のパウロは、こう語りました。
「ほかのどんな戒めも、この一言に要約される。
『あなたの隣人を、自分自身のように愛せよ。』
愛は隣人に悪を行わない。
だから、愛は律法を全うする。」
(ローマ人への手紙 13章9〜10節)
つまり──
すべての教えも、すべての正しさも、最終的には“愛”に行き着く。
「正しさ」を求めすぎると、人は冷たくなる
人は「間違いを正したい」「正義を貫きたい」と思う生き物です。
しかし、“正しさ”を追い求めるあまり、
いつのまにか他人を裁く側に立ってしまうことがあります。
- 「自分の方が正しい」
- 「相手は間違っている」
- 「あの人はルールを破っている」
こうして“正義”が“優しさ”を失ったとき、
そこには争いや断絶が生まれます。
パウロはそんな私たちに、「正しさよりも、愛を選べ」と語ります。
なぜなら、愛には人を生かす力があるからです。
愛は「感情」ではなく「選択」
聖書が語る愛とは、
恋愛や好意のような一時的な感情ではありません。
それは、相手の最善を願い、害を与えない心の姿勢。
たとえ相手が自分を傷つけたとしても、
「どうすればこの人に平和が訪れるか」と考える心。
つまり、愛とは「感じるもの」ではなく「選ぶもの」なのです。
愛を選ぶ人は、
憎しみの連鎖を断ち切り、争いの中に光をともします。
それは簡単ではありませんが、
人として最も高い生き方です。
「隣人を愛する」とは、誰を愛することか?
“隣人”とは、単に物理的に近くにいる人を指すのではありません。
聖書が言う隣人とは、あなたの人生に関わるすべての人のこと。
- 家族や友人
- 職場の同僚
- 意見の違う人
- 時には、あなたを傷つけた人
愛の対象は、“都合のいい人”だけではないのです。
むしろ、「愛せない人」にこそ、愛の本質が試されます。
愛は、理解できない相手をも包み込もうとする力。
それこそが、神が人に求めている“完全な愛”のかたちです。
愛に生きる人は、心が自由になる
人は、憎しみや嫉妬に囚われるとき、
他人ではなく、自分自身を苦しめています。
しかし、愛に生きる人は、心に平和を持ちます。
許すことで、手放すことで、心は軽くなり、
本当の自由を手に入れることができます。
愛は義務ではなく、魂の自由の表れなのです。
おわりに──「愛」はすべての終着点であり、出発点でもある
聖書の戒めは、一見すると「してはいけないこと」が多く並びます。
けれど、その目的は人を縛ることではなく、
人を愛のある生き方へ導くためにあります。
「隣人を自分のように愛する」ことができれば、
争いも、裏切りも、嘘も、自然と消えていきます。
愛は、すべての戒めの完成である。
そして、愛に生きることが、人間として最も美しい生き方である。
すべては、愛に始まり、愛に帰結する。
それこそが、神が人に望んでいる“完全な道”なのです。
