運命は生年月日や星座とは関係ない|幸田露伴『努力論』が教える“自分で切り開く人生”
「生まれた日」や「星座」で運命は決まらない
「あなたの星座は○○だから、こういう性格」
「○年○月生まれだから、運勢は良くない」
私たちは日常的に、占いや星座占いのような“運命の話”に触れています。
軽く楽しむ分には良いのですが、それを自分の人生の指針にしてしまうと、
幸田露伴は『努力論』の中で鋭く警鐘を鳴らします。
運命というものが生年月日や星座だとか、人相や手相などによって決まっているというのが「運命前定説」だが、こんなことを信じている人ほど悲しい不幸な人間もいない。
露伴にとって、「運命前定説」(うんめいぜんていせつ)とは、
**“人の運命はあらかじめ決まっている”**という考え方。
この思想を信じること自体が、すでに不幸の始まりだと彼は言うのです。
「運命に支配される人」と「運命を支配する人」
露伴は続けます。
そんな弱くて貧しい考え方自体が不運を引き寄せてしまう。
つまり、**「自分にはどうにもできない」**と思ってしまうその心こそが、
不幸を呼び寄せるというのです。
運命を「与えられたもの」として受け身で生きる人は、
何かうまくいかないことがあると、
「これは星のせいだ」「生まれのせいだ」と他責にしてしまいます。
一方、運命を「自分の力で作るもの」と考える人は、
たとえ困難に直面しても、
「じゃあどうすれば変えられるか?」と能動的に行動します。
露伴のメッセージはシンプルです。
運命を信じるな。努力を信じよ。
2000年以上前に、すでに「運命否定論」があった
興味深いのは、露伴がこの考えを古代中国の思想と結びつけている点です。
彼は『荀子』や『論衡』といった古典を引用しながら、
すでに二千年以上も前から「運命は決まっていない」という考え方が存在していたことを示しています。
『荀子』では、人相と運命は関係ないと説かれている。
『論衡』でも、生年月日と運命は関係ないと説かれている。
つまり、現代人が信じがちな「星座や誕生日で運勢が決まる」という考え方は、
古代思想よりも後退した迷信だと露伴は批判しているのです。
「運命を信じる人」はなぜ不幸になるのか
一見、占いや運勢を信じるのは harmless(無害)なことに思えます。
しかし、露伴が言う「悲しい不幸な人」とは、
“自分の力を手放してしまった人”のことです。
運命を信じると、
「どうせ決まっている」「自分には無理だ」という思考に陥り、
行動のエネルギーを失ってしまう。
逆に、運命を信じず、
「どんな状況でも自分の手で切り開く」と考える人は、
同じ困難にあっても前に進める。
つまり、運命を信じるほど、努力ができなくなる。
そして努力を放棄することこそが、最大の“不運”なのです。
「運命を変える力」は、誰にでもある
露伴の『努力論』全体に流れるテーマは、
「人は努力によって人生をつくる存在である」という信念です。
運命を信じるよりも、
“自分の努力によって未来を変える”と信じる方が、
はるかに現実的で、力強い生き方だと説いています。
ここで重要なのは、努力=苦労ではないということ。
努力とは、日々の中で「良く生きよう」とする小さな積み重ねです。
・学び続けること
・人に誠実であること
・感情をコントロールすること
・挑戦する勇気を持つこと
これら一つひとつの行動が、
“自分の手で運命をデザインする”という姿勢につながります。
もし運命を信じてしまうときは
それでも、人は不安になると「運命」に頼りたくなります。
「もう頑張っても無駄かも」「こんなに努力してるのに報われない」
そんなとき、占いやスピリチュアルな言葉にすがりたくなる気持ちは自然です。
けれど、その瞬間こそ思い出したいのが露伴の言葉です。
二千年前にすでに“運命前定説”を否定した人々がいた。
つまり、私たちは「運命に従う生き方」を超えてきた歴史の上に立っているのです。
であれば、いま改めて“努力で人生を切り開く道”を選ぶことができるはず。
まとめ|運命を信じるより、自分を信じよう
幸田露伴の『努力論』が伝えるのは、
「運命は与えられるものではなく、築くものだ」という真実です。
運命を星に求めるな。努力の中に見つけよ。
運命を信じることは、心のよりどころにはなるかもしれません。
しかし、それに縛られると、行動の自由を失ってしまいます。
自分の手で、自分の足で、
未来を作っていく人だけが、真に“運の良い人”になるのです。
