死への恐れを恐れるな|エピクテトスとセネカに学ぶ自由な生き方
古代ギリシアの哲学者エピクテトスは『語録』の中でこう語りました。
「君は、人間の諸悪の最たるもの、卑しさと臆病さの紛れもないしるしが、死そのものではなく、死への恐怖だと考えるのか? ならばそうした恐怖に負けぬよう己を鍛え、思考や行動、読書をすべてそれに振り向けよ。そうすれば、人間を自由にする唯一の道が分かるだろう。」
彼がここで指摘するのは、「死」そのものではなく「死を恐れる心」こそが私たちを弱くし、自由を奪うという事実です。
死が恐ろしいのは「未知」だから
プラトンは『パイドン』の中で、「われわれの内には死におびえる子供がいる」と述べました。
なぜ子供のように怯えるのか? それは死が「正体不明」だからです。
誰も死から戻ってきて「こういうものだった」と説明することはできません。だからこそ、私たちは死について無知であり、その無知が恐怖を生み出しているのです。
共和制ローマの政治家であり哲学者でもあったカトーは、カエサルに屈するよりも死を選ぼうとしました。その覚悟を固めるために彼が読んだのも、この『パイドン』の一節でした。
哲学は、死の未知を前にしても揺るがぬ指針を与えてくれるのです。
賢人たちは死を恐れなかった
現代でも、世界最高齢といわれる人々が死を恐れていないように見えるのはなぜでしょうか。
彼らは長い年月の中で死について考え続け、やがて「恐れること自体が無意味だ」と悟ったからです。
例えば、女優であり作家、心理学者でもあったフロリダ・スコット=マクスウェルは、80歳を過ぎて末期の病に冒されながらも、ストア派的な心で日々をつづりました。彼女の日記『八十歳、わが日々を生きる』は、死を恐れるのではなく静かに受け入れる姿勢を伝えてくれます。
また哲学者セネカも、皇帝の命によって自害を迫られた際、家族や友人が嘆き悲しむのを見てこう諭しました。
「君たちの哲学の原則はどこに行ったのだ? 来る悪に備えて長年研鑽を積んできたのではないのか?」
彼は恐怖に押し潰されるのではなく、哲学に従って穏やかに死を受け入れたのです。
死が「終わり」なら、恐れる理由はない
ストア派哲学には、死を恐れないためのもうひとつの考え方があります。
もし死が「すべての終わり」だとしたら、そこに恐怖は存在しません。
- 死後には不安もない
- 痛みを感じる器官も消える
- 心配事も、後悔も、何も残らない
つまり、死が訪れた瞬間に恐怖そのものも消えてしまうのです。
エピクテトスは「死への恐怖に支配されるな」と言いました。なぜなら、その恐怖は現実ではなく、私たちの心が作り出した幻だからです。
死の恐怖に向き合う方法
現代に生きる私たちも、このストア派の視点を取り入れることができます。
- 死について考える習慣を持つ
死を避けて考えないのではなく、「自分の命は有限だ」と日々確認することで、かえって今を大切にできます。 - 賢人の言葉に触れる
セネカやエピクテトス、あるいは現代の作家や哲学者の著作を読むことは、死に対する考えを深め、恐怖を和らげてくれます。 - 「もし今日が最後の日なら」と問いかける
死を意識することは、人生の優先順位を整理し、本当にやりたいことに時間を使うための最高の方法です。
まとめ ― 死の恐怖を超えて自由に生きる
- 死そのものよりも、死を恐れる心が人間を縛る
- 哲学や賢人の言葉は、死の恐怖を和らげ、生を深める力を持つ
- もし死が終わりならば、恐怖そのものも消える
- 死を意識することで、今をより誠実に、自由に生きられる
死を恐れる子供のような心を乗り越えること――それこそが、エピクテトスの言う「人間を自由にする唯一の道」なのです。
