「神の愛を感じる」──努力や立場を超えて、人は愛によって受け入れられる
神の愛を感じる──努力や立場を超えて、人は愛によって受け入れられる
人は誰しも、「何かを成し遂げなければ価値がない」と感じる瞬間があります。
努力、学歴、立場、名誉──
それらを積み重ねることで、自分の存在意義を確かめようとする。
しかし、ある日ふと気づくのです。
どれほど積み上げても、心の平安は得られないということに。
かつてパウロも、その一人でした。
彼は宗教エリートとして、自らの正しさに誇りを持ち、
律法に忠実に生きようとしていました。
しかし彼は、キリストに出会った瞬間、すべてが変わります。
「私はキリストを知ることのすばらしさのゆえに、
それまで得と思っていたものをすべて損と思うようになった。
それらは塵あくたにすぎない。
ただキリストにあって見出されたい。」
(ピリピ人への手紙 3章7〜9節)
「努力では届かない愛」がある
パウロは、かつて“完全な信仰者”を目指していました。
誰よりも熱心に戒律を守り、祈り、正義を貫こうとしました。
けれど、どれほど頑張っても、
心の深いところにある罪の感覚は消えなかった。
それは、「努力で神に近づこうとする限界」を意味していました。
やがて彼は悟ります。
人は、自分の努力で神の愛を得ることはできない。
神の愛は、すでにすべての人に注がれている。
「信仰」とは、愛されていることを受け入れる勇気
パウロの転機は、
「神の愛とは“条件付きの報酬”ではない」と知った瞬間でした。
信仰とは、
「頑張って神に認められる」ことではなく、
“自分はすでに愛されている”ことを信じて受け入れること。
この気づきは、彼の心に自由をもたらしました。
- 完璧でなくてもいい
- 失敗しても見放されない
- 神は、ありのままの自分を受け入れてくださる
この“愛されている確信”こそが、
彼にとっての真の救いだったのです。
十字架が示す「無条件の愛」
パウロが語る神の愛の中心には、十字架があります。
キリストは、自らを憎み、釘打った人々のために祈りました。
「父よ、彼らをお赦しください。」
この祈りこそ、無条件に捧げ尽くす愛の象徴です。
神の愛は、功績や資格によって与えられるものではなく、
赦しと受容をもって与えられるもの。
この愛を知ったとき、人は心の重荷を下ろし、
初めて“真の平安”に触れるのです。
「宗教」と「信仰」は違う
パウロは、戒律を守ることや宗教的熱心さに価値を見出していました。
けれど、キリストとの出会いによってこう悟ります。
宗教は人が神に近づこうとする努力。
信仰は神が人を抱きしめる愛の受け入れ。
宗教的義務の中では得られなかった希望が、
信仰という関係の中で初めて実現するのです。
「信仰」とは、理屈ではなく関係。
そして、その関係の本質は“愛”です。
おわりに──愛に包まれて生きる
パウロが最後に見出したのは、
努力でも、地位でも、知識でもない。
ただ一つ──神の愛の中で生きること。
「私は、神の愛の中で平安を得た。
それは、自分の力ではなく、信じることによって与えられた。」
神の愛を感じるとは、
「愛されている自分」を受け入れることです。
他人に認められなくても、
過去に失敗があっても、
神はあなたを愛しておられる。
その愛が、
あなたの価値を決め、人生を照らしています。
努力の果てに見つけるのではなく、
今この瞬間、すでに愛されている。
それが、神の愛のリアリティなのです。
