親孝行は論じるものではなく実行するもの──新渡戸稲造『人生雑感』に学ぶ、思いやりを形にする生き方
親孝行は「議論」ではなく「実践」である
新渡戸稲造は、若者たちに対してこう語りかけています。
「君たちは孝行といって、親に対する義務を論じたりしているが、それだけでは決して親孝行の何たるかはわからないだろう。」
ここで新渡戸が問題視しているのは、「親孝行を知っているつもりで、実際には何もしていない若者」の姿です。
多くの人は「親を大切にしよう」と口で言いながら、行動に移すことができません。
新渡戸は、それを“空論”だと喝破しています。
親孝行とは、言葉や理屈ではなく、相手を思って動く心にあるのです。
たった一枚の葉書が、立派な親孝行
「お母さんはよく寒い日に風邪をひいていたが、今日は寒がっていないだろうかと心配したなら、たとえ一言でも『今日は東京でさえ非常に寒いですが、お変わりないですか』と葉書の一枚でも出すほうが、どんなに親孝行になるか。」
新渡戸のこの一節は、非常に具体的で、そして温かい。
彼は「大きなことをする必要はない」と教えています。
親孝行とは、特別な日に贈り物をすることでも、高価な仕送りをすることでもない。
**「気にかける」「心を寄せる」**ことこそが、本当の親孝行なのです。
たった一枚の葉書、一本の電話、ひとことのメッセージ。
その小さな行動が、親の心をどれほど喜ばせるか。
新渡戸は、そこに“実行の徳”を見ています。
「良いこと」と思ったら、すぐ行動する
「このように物事は単に論じるだけでは意味がない。それがよいことだと思えば即座に実行に移すことが最も大切なのだ。」
ここに、新渡戸の哲学の核心があります。
彼は「知っている」だけでは人間は成長しないと説きます。
善を“理解”することと、善を“行う”ことはまったく別。
そして、価値があるのは行ったことだけです。
どんなに道徳や倫理を語っても、行動に移さなければ、それは単なる知識にすぎません。
親孝行に限らず、思いやり・誠実・努力——どんな徳も「実行」して初めて意味を持つのです。
「わかっているのに、できない」人へ
新渡戸は、若者たちの心理をよく理解していました。
「親孝行しなければ」と思っていても、つい忙しさや照れから後回しにしてしまう——そんな人間の弱さです。
しかし彼は、こうした「思うだけで終わる心」を静かに戒めます。
「行動に移さない善意は、存在しないのと同じである。」
親孝行に限らず、感謝も愛情も、形になって初めて伝わるのです。
たとえ不器用でも、行動する人は誠実であり、沈黙のままでは気持ちは届きません。
現代社会における「親孝行のかたち」
現代では、親と離れて暮らす人も多く、昔のように日常的に顔を合わせる機会が少なくなっています。
しかし、新渡戸の教えは、今もそのまま通用します。
- 仕事帰りに「最近どう?」とLINEを送る
- 実家に電話をして、声を聞かせる
- 何か食べ物を送る
- 両親の好きな話題に耳を傾ける
どれも大げさなことではありませんが、「心をかける」という一点において、すべてが親孝行です。
親孝行は「修養の第一歩」でもある
新渡戸稲造は、親を敬う心を“修養の原点”と位置づけています。
親を思いやる心は、人を敬い、社会を支える心の基礎になるからです。
- 親を思う → 他人を思う
- 家族に感謝する → 社会に感謝する
- 家庭で誠実である → 世の中でも誠実である
つまり、**親孝行は「徳のはじまり」**なのです。
それは単なる家庭の美徳ではなく、人としての根を育てる修養の実践です。
まとめ:親を思う心を、すぐ行動に
『人生雑感』のこの章が伝えるメッセージは、極めて明快です。
- 親孝行は、語るものではなく、行うもの。
- 小さな思いやりの行動が、最も尊い親孝行になる。
- 善は理解するよりも、まず実行する。
つまり、**「思ったその時に、すぐ動く」**ことが、人としての最も大切な姿勢なのです。
最後に
新渡戸稲造の言葉を現代風に言えば、こうなるでしょう。
「親を思うなら、今すぐ何か一つ、行動に移しなさい。」
一枚の葉書、一通のLINE、一言の「ありがとう」。
それだけで十分なのです。
親孝行とは、特別な日ではなく、思い立ったその瞬間からできる修養なのです。
