五分間だけ聖人であれ──新渡戸稲造『修養』に学ぶ、心を整える小さな修養の時間
「五分だけでいい」から始める修養
新渡戸稲造は『修養』の中で、非常に印象的な言葉を残しています。
「一日に五分でも心を落ち着けて考え、世の中の雑事から超然とする時間をもつことができるならば、誰でもその時間だけは中国古代の聖人である堯舜のようになることができる。」
ここで新渡戸が言う「五分間」とは、単なる休息ではありません。
日々の忙しさから離れ、心を鎮め、自分自身を見つめる時間のこと。
たった五分でもいい。
そのわずかな静けさの中に、人間の精神を磨く“聖なる力”が宿るのです。
聖人とは「特別な人」ではない
新渡戸は、“聖人”という言葉を、決して宗教的な意味で使っていません。
彼の言う聖人とは、自分を制し、心を整え、正しく考えることのできる人のことです。
つまり、「五分間だけ聖人であれ」とは、
「短い時間でいいから、日常から一歩離れて自分を静かに省みる人になりなさい」という意味。
現代の言葉にすれば、これは「一日五分のマインドフルネス」「心の整理整頓」とも言えるでしょう。
「五分」を続ければ、やがて人格が変わる
「もちろん五分ぐらいでは何の効果もないと思う人もいるだろう。しかし、この五分をわがものとすることができれば、それが次には十分、十五分ともなる。」
新渡戸は、“小さな修養の積み重ね”こそが人格を形づくると説きます。
たった五分でも、それを毎日続けることで心が変わる。
その変化が積み重なり、やがて「生き方」そのものが変わっていくのです。
最初は短くても構いません。
一日五分、自分の心と向き合う時間を持つ。
それが十年続けば、人格の深みは確実に違ってきます。
現代社会こそ必要な「五分間の静けさ」
スマートフォン、SNS、ニュース、メール……
現代社会は一瞬たりとも静けさを許してくれません。
だからこそ、意識的に“心を止める時間”を取ることが、現代人にとっての修養になります。
新渡戸の言葉を借りれば、
五分間だけでも「世の中の雑事から超然とする時間」を持つこと。
たとえば——
- 朝起きてから5分、静かに呼吸を整える
- 夜寝る前に、今日一日を振り返って感謝する
- 通勤中の5分を、スマホではなく「心の整理」に使う
これだけで、心は穏やかになり、日々の出来事を冷静に受け止められるようになります。
五分間の修養がもたらす三つの効果
新渡戸の思想を現代風に整理すると、「五分間の修養」がもたらす効果は次の三つです。
① 感情の整理ができる
忙しい日々では、怒り・不安・焦りが積み重なります。
五分間静かに心を見つめることで、感情がリセットされ、落ち着きを取り戻せます。
② 思考が深まる
静けさの中では、情報や人の声に流されず、自分の本音に耳を傾けられます。
それが判断力と洞察力を磨く時間になります。
③ 自己を律する力が育つ
五分間でも続けることで、自分を律する意志力が鍛えられます。
これは、あらゆる修養の基礎となる“精神の筋トレ”です。
聖人になることは、完璧になることではない
新渡戸が伝えたかったのは、「聖人のように完璧になれ」ということではありません。
むしろ、不完全な自分を受け入れ、それでも日々少しずつ整えていくことこそが修養の本質です。
聖人である時間が「五分」から「十分」に延び、「一瞬」から「一日」へと広がっていく——
それは、誰にでも開かれた心の成長の道なのです。
まとめ:一日五分の静けさが、人格をつくる
『修養』のこの章は、短いながらも極めて実践的な教えです。
- 五分間だけでも心を静め、雑事から離れる
- その小さな時間が、やがて人格を育てる
- 聖人とは、特別な存在ではなく「心を整える人」
忙しさの中でも、五分間だけ「立ち止まる勇気」を持つこと。
それが、人生をより深く、穏やかに生きる第一歩です。
最後に
新渡戸稲造の言葉を現代に訳すなら、こうなるでしょう。
「完璧を目指すな。五分間だけ、静かに生きよ。」
たった五分の心の静寂が、やがてあなたの人生を変えます。
その短い時間の積み重ねこそが、**現代人にとっての“修養の道”**なのです。
