「自分が絶対に正しい」と思う人が失うもの──フランクリンに学ぶ“知的謙虚さ”の力
「自分の意見が絶対に正しいと思うのは、最大の思い上がりだ。」
ベンジャミン・フランクリンは、父親ジョサイアに宛てた手紙の中で、そう語っています。
まだ20代後半の若き日の言葉ですが、その洞察は驚くほど成熟しており、今の時代にも鋭く響きます。
■「無謬(むびゅう)性」という危険な思い込み
フランクリンが批判したのは、「自分たちは間違わない」という思い込み。
ラテン語で“無謬性”と呼ばれる考え方です。
彼はこう指摘します。
「人はローマ教皇や議会の無謬性を否定するくせに、
自分たちの教会や派閥の主張だけは絶対に正しいと思っている。」
つまり、他人の独断は批判するのに、自分の独断には気づかないという人間の矛盾です。
フランクリンはその傲慢さを「たいへんなうぬぼれ」と呼び、
それを避けることこそが、真の知性だと説いています。
■理解は常に“不完全”であるという前提
フランクリンは、自分たちの理解がどれほど影響を受けやすいかを冷静に分析しています。
- 生まれつきの性格
- 教育や家庭環境
- 読んできた本
- 一緒に過ごす仲間
これらが、知らず知らずのうちに思考の枠を作り上げる。
つまり、人は自分の経験の中でしか物事を判断できないという事実を受け入れていたのです。
それゆえ、彼は「誰の考えも部分的に正しく、部分的に誤っている」と考えました。
この視点は、のちに彼の「柔軟な交渉術」「対話による政治哲学」へとつながっていきます。
■“間違えること”を前提にする勇気
現代社会でも、この「無謬性の幻想」はあちこちに見られます。
SNSのコメント欄、政治的議論、職場のミーティング──
どの場でも「自分が正しい」「相手が間違っている」という姿勢が対立を生みます。
しかし、フランクリンのように、
「自分も間違うかもしれない」
という前提を持つ人は、他者の意見に耳を傾けられます。
この“間違えることを前提にする勇気”こそ、健全な議論や成長の原点です。
■知的謙虚さが、信頼を生む
フランクリンが生涯を通じて成功した理由の一つは、
この**知的謙虚さ(intellectual humility)**にあります。
彼は自分の信念を貫きつつも、常に他人の視点を取り入れ、
「もしかしたら自分が誤っているかもしれない」という余白を持っていました。
この姿勢が、敵対する立場の人々にも信頼を生み、
政治家・外交官として多くの合意を築くことを可能にしたのです。
現代のリーダーにも、フランクリンのこの態度は欠かせません。
知的謙虚さを持つ人は、
- 批判を受け入れられる
- 学び続けられる
- 多様な人と協働できる
まさに「成長し続けるリーダー」の条件を満たしているのです。
■「絶対に正しい」と思う瞬間こそ、疑え
フランクリンがこの手紙を書いたのは、宗教論争が盛んな時代でした。
信仰の違いが争いを生み、互いに「自分が正しい」と主張して譲らない。
その光景を見て、彼は悟ります。
「絶対に正しい」と思った瞬間に、人は間違い始める。
それは宗教に限らず、ビジネス、家庭、教育、あらゆる場面に通じます。
「私は正しい」と思った瞬間、他人の声を閉ざし、
学びと成長の機会を失うのです。
■まとめ:正しさより、柔軟さを
フランクリンの若き日の言葉は、今を生きる私たちへのメッセージでもあります。
- 自分の理解は不完全であると知る
- 他者の立場に耳を傾ける
- 「正しいこと」より「より良いこと」を探す
知的謙虚さとは、自分を疑う勇気であり、学び続ける姿勢です。
そして、それこそが最も強く、最も信頼される知性の形なのです。
フランクリンの言葉を借りるなら、こうまとめられるでしょう。
「自分は絶対に間違っていないと思うとき、
すでに間違っているのかもしれない。」
