フランクリンが語る「自負心との闘い」:謙虚さを保つために人が一生向き合う課題
「自負心ほど、抑えるのが難しい情念はない。」
――これはベンジャミン・フランクリンの深い自己洞察の言葉です。
彼は「13の徳」の最後に「謙譲」を加え、自らの傲慢さを抑えようと努めました。
しかし、80歳を超えた彼でさえ、**“自負心を完全に消すことはできなかった”**と告白しています。
「どんなに隠そうと、戦おうと、殴り倒そうと、息の根を止めようと、押し殺そうと、
息絶えることなく生き延び、顔をのぞかせて姿を現すのである。」
■ 「自負心」は人間の根にある感情
フランクリンは、人間の中にある「誇り(プライド)」を“消せない火”のようなものと捉えていました。
どんなに理性で抑えても、状況が変わればまた燃え上がる。
彼はユーモアを交えてこう述べています。
「完全に克服したと思っていても、『謙譲を身につけた』と自負している自分がいる。」
つまり、「私は謙虚だ」と思った瞬間に、すでに謙虚ではなくなっているという、
人間の逆説的な性質を指摘しているのです。
この洞察は、心理学的にも非常に鋭いものです。
人は「謙虚でありたい」という欲求自体が、別の形の自負を生む。
これは、フランクリンが生涯を通して観察した“人間の宿命”でした。
■ 「自負心」は悪ではなく、扱い方が問題
フランクリンは自負心そのものを否定したわけではありません。
むしろ、それを人間が持つ自然な力として理解していました。
プライドは、努力の源でもあり、自己肯定感の土台にもなります。
しかし、それが「他者との比較」や「優越感」に変わると、
たちまち徳を蝕み、人間関係を壊す。
だからこそ、フランクリンは「謙譲」という徳をあえて最後に置いたのです。
それは、他の12の徳――節制・勤勉・倹約・誠実など――を積み上げた人間が、
最後に必ず直面する最大の敵が“自負心”であることを知っていたからです。
■ 「自負心を克服しようとする自負」――人間のジレンマ
この箇所の面白さは、フランクリンが**「自分の徳を語ること自体が自負心の現れだ」と認めている**ところです。
「わたしが語っているこの話のなかにも、なんども自負心が姿を見せているだろう。」
つまり、「謙虚になろう」と努力し、その努力を誇りに感じてしまう。
それが人間という存在だと、彼は自嘲気味に語っています。
この自己認識の深さが、フランクリンの魅力です。
彼は人間を理想化せず、**「不完全さを受け入れたうえで前進する」**という現実的な倫理観を持っていました。
■ 現代にも通じる「健全なプライド」の育て方
フランクリンの考えを現代に応用するなら、
「自負心を抑える」のではなく「健全に方向づける」ことが大切です。
以下の3つの姿勢が、そのヒントになります。
① 「成果」よりも「成長」を誇る
他人と比べて優れていることではなく、
昨日の自分より少し良くなったことを誇りに思う。
これが、破壊的な自負心を“自己成長のエネルギー”に変える方法です。
② 「感謝」を意識する
フランクリンは成功のたびに「周囲の協力のおかげだ」と述べていました。
自分だけで成し遂げたと思う瞬間に、傲慢さが顔を出す。
感謝は、自負心を和らげる最良の鎮静剤です。
③ 「失敗談」を語る
フランクリンは『自伝』の中で、失敗や欠点を隠さず語りました。
これは「自分を客観視する力」を鍛える行為です。
完璧さではなく、失敗を笑い飛ばせる人こそ、真に謙虚な人です。
■ 「謙譲」と「自負心」は両立する
フランクリンの思想を誤解してはいけません。
彼が目指したのは、「自分を卑下すること」ではなく、
**「自分の強さを静かに自覚し、誇示しない」**という成熟した姿です。
誠実に努力し、成果を上げても、それを声高に語らない。
必要なときだけ、静かな確信をもって行動する。
これこそが、フランクリンの言う“真の謙譲”です。
「謙譲を誇ってしまう自分」に気づける人ほど、すでに謙虚である。
このパラドックスを受け入れたとき、人は初めて精神的な自由を得ます。
■ まとめ:自負心は「消す」ものではなく「制御する」もの
フランクリンが80歳を超えてなお「自負心の克服は難しい」と語ったのは、
人間の本質を深く理解していたからです。
「自負心は殴り倒しても生き延びる。息絶えることなく姿を現す。」
彼にとって、自負心は“敵”ではなく“永遠の教師”でした。
自分の中にある誇りの声を完全に消すことはできない。
しかし、それを自覚し、制御し、正しい方向へ使うことはできる。
フランクリンの哲学は、こうした「人間の限界を受け入れる知恵」に満ちています。
私たちもまた、完璧を求めるのではなく、
誇りと謙虚さのバランスを保ちながら生きることが大切なのです。
謙虚とは、自負心を敵にせず、味方にする術である。
