「神はえこひいきしない」──知識よりも行いが人を正す、“良心”という神の声
神はえこひいきしない──知識よりも行いが人を正す、“良心”という神の声
人は誰しも、「自分は正しく生きているだろうか」と問う瞬間があります。
知識や信仰を持っている人もいれば、そうでない人もいます。
しかし、神の目は、誰に対しても公平だと聖書は語ります。
「神は人をえこひいきなさらない。
律法を持たない異邦人が、その律法に従わずに罪を犯すなら、律法なしに滅びる。
律法を持つ者がそれに従わずに罪を犯すなら、律法によって裁かれる。
なぜなら、律法を聞く者ではなく、それを行う者が正しいとされるからである。」
(ローマ人への手紙 2章12〜15節)
この一節は、「知っていることよりも、行っていることのほうが大切だ」という真理を伝えています。
知識よりも「行い」が問われる
世の中には、正しいことを知っていながら、それを実践しない人がいます。
一方で、宗教や聖書を知らなくても、自然と人を思いやり、誠実に生きている人もいます。
パウロは、そんな現実を見てこう言いました。
「何を知っているかではなく、何を行ったかが問われる。」
つまり、神の評価は知識の量ではなく、愛の行動にあるのです。
どれほど聖書を暗記していても、
人を裁き、他者を見下すような生き方をしていれば、
その知識は意味をなしません。
逆に、聖書を知らなくても、
良心に従って正しく行動する人は、
すでに神の意志を生きているのです。
「良心」は、すべての人の中にある“神のルールブック”
ローマ書は、「人には良心という、心に書かれた神の法がある」と教えます。
これは、信仰の有無を超えた普遍的な真理です。
たとえば、誰もが「嘘をつけば苦しくなる」「誰かを傷つければ罪悪感を覚える」。
それは、神がすべての人の心に刻んだ“善悪を見分ける感覚”が働いているからです。
だからこそ、聖書を知らない人でも、
自分の内なる良心の声に耳を傾けることで、
神の意志に沿った生き方ができるのです。
良心とは、神が人に与えた“静かな導き”。
それに正直に生きることが、信仰そのものなのです。
「えこひいきのない神」とは、完全な正義の象徴
人間社会では、しばしば立場や肩書きで扱いが変わります。
お金や権力を持つ人が優遇され、
正しい人が報われないこともあります。
しかし、神は決してえこひいきをなさらない。
善悪の判断は、表面的な基準ではなく、
人の内面と行動によって下されます。
- 信仰を持っていても、行いが伴わなければ虚しい。
- 信仰を持たなくても、良心に従って正しく生きるなら尊い。
神の正義は、人の常識や制度を超えたところにあります。
それが「えこひいきのない神」の意味です。
信仰を“知識”で終わらせないために
信仰を持つことは素晴らしいことです。
しかし、信仰を“学問”として終わらせてしまっては意味がありません。
大切なのは、
学んだことを「実際の行動」へと変えること。
- 理不尽に怒るのではなく、優しく対応する。
- 争いを広げるのではなく、和解の道を選ぶ。
- 批判するのではなく、祈りで支える。
行いが伴う信仰こそ、本物の信仰なのです。
おわりに──「知る信仰」から「生きる信仰」へ
ローマ書の教えは、私たちにこう問いかけます。
あなたは、知っていることを生きているか?
神は、人の立場でも知識でもなく、心のあり方と行動を見ておられます。
神はえこひいきしない。
だからこそ、誰にでも、真実に生きるチャンスがある。
信仰を知ることよりも、
その愛を生きること。
そこにこそ、神が求める「人としての完成」があるのです。
