『ゴールデンカムイ』に学ぶ貨幣の正体
アイヌが金を持たなかった理由と金塊の魔力
人気漫画『ゴールデンカムイ』の終幕は、経済の本質を鋭く突いていた。鶴見中尉の「アイヌの宝物に黄金を使ったものはない」という指摘は重要だ。実際、自給自足に近いアイヌの文化圏において、食べられず、道具にも適さない金は、ただの重い石ころに過ぎない。しかし、ウイルクや土方歳三といった男たちは、血眼になってその金塊を追い求めた。なぜか。それは彼らが、アイヌの外側の世界、つまり金が圧倒的な「購買力」を持つグローバルな社会を見据えていたからである。国家の建設であれ、防衛力の強化であれ、金塊そのものが目的ではなく、それを使って物資や武器を調達することが真の目的だったのだ。
国境を越える「購買力」のメカニズム
金が価値を持つのは、それが綺麗だからではない。「他国で物が買える」からだ。仮に、金に全く価値のないA国と、金で小麦が買えるB国があったとする。商人はA国でタダ同然の金を手に入れ、B国へ持ち込むだろう。この「裁定取引」によって、金は国境を越えた共通の「貨幣」としての地位を確立する。つまり、ウイルクたちが求めたのは金属としての金ではなく、他国の市場にアクセスし、必要な物資を引き出すための「鍵」だったのである。貨幣の価値とは、突き詰めれば「何かが買える」という購買力そのものなのだ。
「金を買え」という助言への違和感
現代のインフレ局面において、多くの評論家は「資産防衛のために金を買え」と説く。しかし、あえて言わせてもらえば、それは本質を見誤っている。金は食べられない。極限の食糧難において、輝く金属は何の役にも立たないのだ。もし真の意味で将来のリスクに備えたいのであれば、私は「金ではなく農地を買え」と助言する。食料を生み出す土地こそが、人間の生存における究極の担保だからだ。購買力を持たない金は、ただのコレクションに過ぎない。
貨幣の担保は「供給能力」にある
結局のところ、一万円札であれ、銀行預金のデジタルデータであれ、あるいは金塊であれ、それ自体に価値があるわけではない。それを受け取って、モノやサービスを提供してくれる「誰か」がいるからこそ、貨幣として機能するのだ。つまり、貨幣の真の担保とは、その国の「供給能力」にほかならない。どれだけ金を積み上げても、それを交換できる市場と生産力がなければ無意味である。『ゴールデンカムイ』の争奪戦は、貨幣とは信用と供給能力の上に成り立つ砂上の楼閣であることを、逆説的に教えてくれているといえるだろう。
