「新しいか古いか」ではなく「善か悪か」で選ぶ──幸田露伴『努力論』に学ぶ正しい判断軸
現代は「新しいこと」に流されやすい時代
私たちは毎日のように「新しい情報」「新しい価値観」「新しい技術」に触れています。
スマートフォンの機能更新、SNSのトレンド、働き方の変化。どれも「新しさ」が魅力的に映ります。
しかし、幸田露伴の『努力論』にあるこの一節は、そんな現代にこそ響く言葉です。
「人間は新しさや古さだけを物差しとしてはいけない。善悪を物差しとして、適切な判断をするべきなのだ。」
つまり、露伴は「新しいか古いか」という表面的な基準ではなく、「それが善いことか、悪いことか」という“本質的な基準”を持てと説いています。
善悪という「軸」を持つことが、人を迷わせない
なぜ「善悪」を物差しにすることが大切なのでしょうか。
新しい考え方や技術には、もちろん便利で価値あるものが多くあります。
しかしその一方で、「効率のために人を軽んじる」「利益のために誠実さを捨てる」といった“悪”を生み出すこともあります。
露伴のいう「善悪を指針とする」とは、流行や多数派の意見に流されず、人として正しいかどうかを常に自分で判断するということです。
この姿勢があれば、どんなに時代が変わっても「正道を踏みはずすことなく生きていける」と露伴は説きます。
「新しい=正しい」ではない
現代では、「新しいもの=進歩的で正しい」「古いもの=時代遅れで悪い」といった極端な価値観が蔓延しています。
しかし、露伴の言葉を借りれば、それは“危うい考え方”です。
たとえば、仕事の現場で「新しいマネジメント法」や「最新のツール」が導入されたとき。
それがどれだけ“新しい”ものであっても、人を傷つけたり、不正を助長するようなものであれば、それは決して“善い”とは言えません。
逆に、古くから続く挨拶の習慣や、相手を思いやる文化は、どんなに時代が進んでも「善」として残り続ける価値があります。
つまり、新しさよりも正しさを選ぶ勇気が必要なのです。
善悪を基準にすれば、迷いが減る
私たちは日々、大小さまざまな選択をしています。
その中で「何が正しいか」「どうすべきか」と迷うことも多いでしょう。
そんなとき、露伴の言葉を思い出してみてください。
「善悪を物差しとして判断する」
このシンプルな指針を持つことで、迷いの多い現代でも自分の軸を保てるようになります。
「これをすると楽になるけれど、誰かを困らせるかもしれない」
「新しいやり方だけど、自分の信念に反していないだろうか」
――そう考えられること自体が、すでに“善い生き方”なのだと思います。
善悪の判断は、学びと経験の中で磨かれる
ただし、「善悪を物差しにせよ」と言われても、すぐに明確な判断ができるとは限りません。
善悪の基準は、時代や文化、立場によって変化することもあります。
そこで重要になるのが、「学び」と「経験」です。
露伴は『努力論』の中で、人間は努力によって徳や知を磨き、正しい判断ができるようになると述べています。
つまり、善悪の判断力は生まれつきではなく、日々の鍛錬で育てるものなのです。
他人の言葉をうのみにせず、自分の頭で考え、自分の行いを振り返る。
そうした積み重ねが、「正道を踏み外さない力」になります。
善悪の指針を持つことは、心の安定にもつながる
善悪を基準に生きると、実は心も安定します。
流行や他人の評価に左右されず、自分の中に「これが正しい」と思える基準があるからです。
それは、成功や失敗に関係なく、自分の生き方に納得できる状態でもあります。
露伴が説く「正道を踏み外さない生き方」とは、つまり「自分の心に誠実に生きること」。
この誠実さこそ、努力を続けるための土台なのです。
おわりに:時代を超えて残る「善悪という普遍の基準」
幸田露伴のこの教えは、明治時代に書かれたにもかかわらず、今もなお深い意味を持っています。
時代がどれほど変わっても、人間が持つべき判断基準は変わりません。
「新しいか古いか」ではなく、「善いか悪いか」で選ぶ。
その一歩一歩の積み重ねが、人生を正しい方向へ導いてくれるはずです。
