病気を招き寄せることは一種の罪だ|幸田露伴『努力論』に学ぶ“自己管理と生き方の責任”
「病気になること」にも責任がある
幸田露伴は『努力論』の中で、健康を単なる個人の問題ではなく、社会的な責任としてとらえています。
不幸にして虚弱体質に生まれついたために病気になっている人は気の毒だ。
これこそ、招かずして病気になった人だといえる。
まず、露伴は「避けがたい病」を明確に区別しています。
生まれつきの体質や運命的な病には、誰も責めることはできません。
しかしその一方で、次のように厳しい言葉を投げかけます。
自ら招いて病気になった人は、その経緯を大いに反省して、二度と繰り返さないようにしなければならない。
つまり、**生活の乱れや不摂生によって病を呼び込んだ場合、それは「自らの行動の結果」**であると露伴は言うのです。
自ら病を招くことは「愚かさ」であり「不義」
露伴の考えでは、病気を軽んじることは“自分への不忠”であり、同時に“他者への迷惑”です。
自ら病気を招くというのは、自分に対して愚かであるばかりか、
両親に対しても親不孝であり、妻子や部下にも苦労と悲しみを与えることになる。
つまり、健康を損なうという行為は、自分一人の問題では済まないということ。
- 親は子の健康を心配し、
- 家族は生活を支え、
- 職場では仲間に負担がかかる。
露伴は「病は社会的な負債になる」とまで言い切ります。
この考え方は、現代の“セルフマネジメント”や“ヘルスリテラシー”の原点でもあります。
「病気は罪」と言う露伴の真意
露伴は次のように結びます。
自ら招いて病気になるということは、社会に対して債務を負うことと同じであり、
極論すればこれは一種の罪ともいえるのだ。
この「罪」という表現には、 moral(道徳的)な意味が込められています。
決して病気の人を責めるためではなく、
**「健康を軽視することは、周囲への思いやりを欠く行為だ」**という警鐘です。
露伴が生きた明治時代は、まだ医学も発展途上。
だからこそ彼は、病気を「運命」ではなく「日々の生き方」の結果として考え、
人々に“予防と節度”の意識を促そうとしたのです。
「健康」は努力の成果である
露伴にとって、健康は“自然に与えられるもの”ではなく、努力によって保たれる状態でした。
- 食事を整えることも努力
- 睡眠を確保することも努力
- 感情をコントロールすることも努力
つまり、健康は「日常の小さな習慣の総和」なのです。
露伴は努力論の随所で「直接の努力」と「間接の努力」を区別しています。
その考え方でいえば、健康管理はまさに“間接の努力”です。
目に見えた成果はすぐには出ませんが、長期的に見れば人生全体の基盤になる。
努力の土台が「健康」である限り、
それを疎かにすることは、人生そのものを軽んじることに等しいのです。
「健康であること」は周囲への思いやり
露伴の思想の特徴は、自己の努力を社会的な倫理にまで拡張する点にあります。
病気になれば、妻子や部下にも苦労と悲しみを与える。
つまり、健康を保つことは「自分のため」であると同時に、
「他人を安心させる行為」でもあるのです。
これは、現代でいう“セルフケアの社会的意義”と同じ考え方です。
健康でいれば、
- 家族に心配をかけずに済む。
- 職場で責任を果たせる。
- 社会に貢献できる。
露伴が説く「病気は一種の罪」という言葉は、
裏を返せば「健康は最大の善行」であるという意味でもあります。
現代に通じる「予防の哲学」
21世紀の今、医療は進歩しましたが、生活習慣病・ストレス・過労死といった問題は依然として深刻です。
露伴の言葉はまるで未来を予見していたかのようです。
自ら招いて病気になることは、社会に債務を負うことと同じ。
無理な働き方や睡眠不足、食の乱れ――
これらを放置することは、単なる“自己放任”ではなく、
家族や社会に対する“責任放棄”にもつながる。
露伴が100年以上前に残したこの警句は、
「健康は義務であり、社会貢献の第一歩である」という現代の価値観に直結しています。
まとめ|健康は“自分と他人を守る努力”
幸田露伴『努力論』の「病気を招き寄せることは一種の罪だ」は、
健康を「自己管理の問題」にとどめず、「生き方の倫理」として説いた章です。
自ら病気を招くというのは、自分に愚かであり、他人に不義である。
それは社会に債務を負うことと同じであり、一種の罪といえる。
健康であることは、ただの幸福ではなく、責任の形。
それは自分への誠実さであり、家族や仲間への思いやりでもある。
今日の一杯の水、十分な睡眠、心の休息――
それらは小さな善行であり、あなた自身と社会を守る“努力の証”なのです。
