「成長不要論」の嘘。GDPが示す本当の国力とは
経済成長論の誤解と本質
「日本はもう十分に豊かだ、これ以上の経済成長は必要ない」。昨今、まことしやかに語られるこの脱成長論は、国家にとって致命的な誤解を含んでいると言わざるを得ない。なぜなら、多くの人がGDP(国内総生産)の定義を正しく理解していないからである。
GDPとは単に「お金がどれだけ儲かったか」という所得の指標だけではない。その本質は「実質的な生産量」、つまり国がどれだけのモノやサービスを生み出せるかという「供給能力」にある。 生産と需要と所得は必ず一致する。したがって、経済成長しないということは、国の生産能力が停滞することを意味するのだ。
生産力こそが安全保障である
この「生産能力」の欠如は、有事において国家の存亡に関わる問題となる。例えば、自国の資源と技術で戦闘機を一から製造できる国と、生産基盤を持たない国。戦争になった際、どちらが勝つかは火を見るよりも明らかである。
かつての日本人は、GDPが単なる豊かさの指標ではなく、軍事力や防衛力を支える「製造能力の指標」であることを骨身に沁みて理解していた。お金があっても、モノを作る能力がなければ、国を守ることはできない。経済成長とは、すなわち国を守る「筋肉」を鍛え続けることと同義なのである。
歴史が証明する「生産力」の恐怖
歴史を振り返れば、生産力の差がいかに残酷な結末を招くかが分かる。産業革命期のイギリスは、機械化による圧倒的な生産性向上を実現し、当時世界一のシェアを誇っていたインドの綿織物産業を壊滅させた。
そして現代、この戦略を最も忠実に実行したのが中国である。彼らは安い人件費を餌に先進国の工場と技術を呼び込み、国家主導で徹底的に吸収した。その結果、家電や太陽光パネルなど、かつて日本が独壇場だった市場は、圧倒的な生産力を持つ中国に奪われたのである。日本がデフレで投資を渋り、生産拠点を海外へ移している間に、中国は着実に「国を作る力」を蓄えていたのだ。
未来への責任と「国を作る力」
日本が経済成長を取り戻さなければならない理由は、単に我々の懐を温めるためではない。半導体や食料、エネルギーといった生存に不可欠な物資を、自国で賄う力を維持するためである。
「自分はもう十分生きたからいい」という諦めは、個人の勝手かもしれない。しかし、生産能力を失った無防備な日本を次世代に残すことは、未来に対する罪であるといえる。我々が必要としているのは、数字上の利益ではなく、危機に際しても揺るがない「実体のある国力」なのである。
