「自分を大きいと思う者は最も小さい者だ」幸田露伴『努力論』に学ぶ、真の謙虚さとは
自分を大きいと思う心が人を小さくする
幸田露伴は『努力論』の中で、人間の「心のあり方」こそが努力の成否を分けると説いています。
この節では、その核心にある“謙虚さ”について、次のように述べています。
「自分を大きいと思っている者は、最も小さな者だ。
自分を強いと思っている者は、最も弱い者だ。
自分を賢いと思っている者は、最も愚かな者だ。
自分に徳があると思っている者は、最も徳のない者だ。」
露伴はここで、「自分を過大評価する心」こそが人を堕落させると警告しています。
それは単なる道徳の話ではなく、成長を止める心理的な落とし穴の指摘です。
慢心は「努力の終わり」を意味する
人は、何かを成し遂げたときや成功を手にしたとき、知らず知らずのうちに「自分はできる」と思ってしまいます。
しかし、露伴はそれこそが真の失敗の始まりだといいます。
「自分の過去と現在のすべてが正しく美しいとして満足する者は、恐れ慎む境地から堕落して、真の努力から遠ざかっていく者だ。」
ここでの「堕落」とは、道徳的な堕落ではなく、精神的な停滞を意味しています。
自分に満足し、成長を止めた瞬間に、人は努力する意欲を失ってしまう。
つまり、「自分はもう十分」と思うことが、努力をやめる口実になってしまうのです。
露伴が繰り返し語る「恐れ慎む」心は、この慢心を防ぐための土台でもあります。
「恐れ慎む」から「修省」へ、そして「努力」へ
露伴は続けて、次のように述べています。
「恐れ慎むことを知らずに、どうして修省を知ることができるだろう。また、修省することなくして、どうして努力することができるだろう。」
ここでのキーワードは「修省(しゅうせい)」です。
これは「自分を省みて、改め、より良くしようと努めること」。
つまり、謙虚さ → 反省 → 努力という流れが、成長の循環なのです。
謙虚さを失うと、反省の機会を失い、努力の方向を見失います。
努力の本質とは、ただ行動することではなく、自分を見つめ直しながら改善し続けることなのです。
現代にも通じる「謙虚さの力」
露伴のこの言葉は、現代社会にも強く響きます。
SNSや情報社会では、「自分を大きく見せる」ことが評価される場面が増えました。
しかし、露伴の視点から見れば、それはむしろ“最も小さい者”の証です。
本当に大きな人は、自分の未熟さを知り、常に学ぼうとする人。
本当に強い人は、自分の弱さを認め、改善を続ける人。
そして、本当に賢い人は、「まだ知らないことがある」と知っている人なのです。
このように考えると、露伴の言葉は古典的でありながら、現代の自己啓発やリーダーシップにも通じる普遍的な真理を示しています。
謙虚さは「弱さ」ではなく「力」
謙虚であることは、弱さの表れではありません。
むしろ、本当の自信がある人ほど謙虚になれるのです。
露伴の思想は、古代東洋の「無為自然」や「中庸」にも通じています。
力を誇示せず、徳を語らず、ただ淡々と自分を磨き続ける――それが、真に大きな人の姿です。
露伴が説く「恐れ慎む」「修省する」という生き方は、
外の評価に振り回されず、自分の内側にある“努力の軸”を大切にする生き方でもあります。
まとめ:謙虚な人こそ、最も強く、最も美しい
幸田露伴の『努力論』第113節「自分を大きいと思う者は最も小さい者だ」は、
現代社会の「自己主張の時代」への静かな警鐘ともいえます。
- 成功しても、慢心しない
- 評価されても、誇らない
- 学んでも、「まだ知らぬ」と知る
この姿勢を持ち続けることこそが、露伴のいう「真の努力者」の条件です。
「われわれは常に慎み敬い恐れ、謙虚に自らを省みなければならない。」
この一文に、露伴の思想のすべてが凝縮されています。
謙虚さは、心の弱さではなく、努力を続けるための最も強い意志なのです。
