老子が説く「すべての人に道は宿る」|善悪を超えて、自分の道に従う生き方
「道は万物の要である」
老子はまず、宇宙の本質としての「道(タオ)」をこう表現します。
道は万物のあり方の要である。
善人はこれを保っており、
そればかりか、不善の人もこれを保っている。
この一節が、老子哲学の包容の極致です。
つまり、善人だけが「道」を持っているわけではない。
どんなに愚かに見える人も、道に背いて生きているように見える人も、
その根底には同じ“生命の道”が流れている。
人間社会では、「善」と「悪」の区別が絶えません。
しかし老子は、それらの区別を“人間の作った仮の線引き”に過ぎないと言います。
自然界には、「悪い風」も「良い風」もありません。
あるがままに吹き、流れ、動いているだけ。
人間もまた、本来は「道の一部として生きている存在」なのです。
「善悪を裁くこと」が人を分ける
老子はこうも言います。
人間はそれぞれに、それぞれの道に従っているのであって、
善不善というのは、人間の当てはめる区別に過ぎない。
この言葉は、現代にも通じる深い洞察です。
私たちは、他人の生き方を「正しい・間違い」と判断しがちです。
しかし、その基準はあくまで「自分の価値観」に過ぎません。
たとえば──
・努力をしない人を“怠け者”と決めつける。
・違う意見を持つ人を“間違っている”と断じる。
・失敗した人を“無能”とラベルづけする。
これらはすべて、“自分の尺度で他人を測る”行為です。
老子はそれを超え、**「誰もが道に生きている」**という視点に立ちます。
そのとき、他人への苛立ちも、怒りも、不思議と和らぐのです。
「言葉を飾る者」は、魂を見失う
老子はさらにこう警告します。
『飾り立てた言葉を使って、口先で世渡りすると、
自らの魂を売り買いすることになってしまう。』
これは、現代の“言葉の時代”に強烈なメッセージです。
SNSやビジネスの世界では、巧みな言葉が評価され、
「うまく見せる」「上手く言う」ことが重視されます。
しかし、言葉を飾ることに夢中になると、
やがて“自分の本音”を失い、
本来の道(自然な生き方)から外れてしまう。
老子は、「言葉よりも徳」「飾りよりも誠実さ」を重んじます。
見せかけではなく、在り方で語れ。
それが“魂を守る”生き方なのです。
「道を伝えること」は、最高の贈り物
老子はこの章で、最高の儀礼さえも「道の教え」に及ばないと述べています。
天子が即位して三人の大臣が定められ、
大きな璧を立て、四頭立ての馬車で迎えるような儀式も、
座ったままで“道”を伝えることにはかなわない。
どれほど立派な地位や名誉があっても、
人の心を導く“教え”には及ばないという意味です。
これは、現代の教育・リーダーシップにも通じます。
- 立場や肩書ではなく、誠実な生き方が人を導く。
- 形式的な言葉よりも、静かな実践が人を動かす。
- “伝える”とは、“見せること”ではなく、“共に生きること”。
それが老子の考える“最高の教え方”です。
「自らの道に従う」ことで、人は救われる
老子は最後にこう結びます。
自らの道に従うなら、
『求めれば手にはいり、罪を犯すことから免れる』
というではないか。
老子の言う「救い」は、宗教的なものではなく、自然な生き方の回復です。
人は、他人の基準で生きようとすると苦しくなり、
自分の道に戻るとき、自然に安らぎを取り戻します。
つまり、「道」とは特別な真理ではなく、
自分の本質と調和した生き方そのもの。
善悪や評価に惑わされず、
静かに自分の心に従って生きること。
それが、老子のいう「罪を犯さずに生きる」道なのです。
まとめ|「道」はすべての人に平等に流れている
老子の第62章が伝えるメッセージは明快です。
- 道は善人にも、不善の人にも宿っている。
- 善悪は人間の作る相対的な区別に過ぎない。
- 飾らず、誠実に、自分の道に従えば、人は自然に救われる。
老子は、人間の“裁きの目”を超えて、
すべての存在を包み込む“道”の働きを描きました。
「善人を捨てず、不善人をも見放さず。
すべての者が、道の中にある。」
善悪の向こうにある“ひとつの流れ”を感じながら、
自分の道を、静かに歩んでいきたいものです。
