老子に学ぶ「知らないということを知るのはすばらしい」──無知の自覚が人を賢くする理由
「知らないということを知るのは、すばらしい」──真の知の始まり
老子第71章は、わずか数行の短い章ながら、
深い洞察に満ちています。
知らない、ということを知るのは、すばらしい。
知らない、ということを知らないのは、病である。
老子の言葉は、**「無知の知」**という逆説的な真理を語っています。
「知らないことを知る」とは、
自分の限界を理解し、世界の広さを受け入れること。
この「気づき」がある人は、常に柔軟で、学び続ける。
一方で、「知らないことを知らない人」は、
自分の狭い理解の中で世界を判断し、成長が止まります。
老子は、**“知らないことを恐れず、むしろ認めることが智慧の第一歩”**だと言うのです。
「知らないことを知らない」──知の傲慢という“病”
老子は、次のように言い切ります。
知らない、ということを知らないのは、病である。
ここで言う“病”とは、身体の病ではなく、心の病です。
それは、知識を持つことによって生じる傲慢、
“自分はわかっている”という錯覚のこと。
現代で言えば──
- SNSやネットで得た知識を「理解」と勘違いする
- 他人の意見を受け入れられず、正しさに固執する
- 専門用語を使いこなすことが「賢さ」だと錯覚する
これらはすべて、**「知らないことを知らない病」**です。
老子は、こうした“知の慢心”こそ、
人を迷わせ、心を病ませる原因だと見抜いていました。
「聖人はその病を病として認める」
老子は次に、聖人(理想的な人)のあり方をこう語ります。
聖人がその病にならないのはなぜかというと、
その病を病として認めるからである。
これは、まさに自己認識の力。
聖人も、知らないことがある。
でも、自分が“知らない”という事実を受け入れている。
だからこそ、そこに傲慢も不安もない。
自分を正直に見る人は、常に調和の中にいます。
逆に、自分を偽る人ほど、心の中に葛藤を抱えます。
老子が言いたいのは、
「病を否定することが、病そのものだ。」
自分の未熟さ・弱さ・無知を受け入れたとき、
人は初めて健全な学びと成長を始められるのです。
「知らない」ことを恐れない勇気
現代社会は、“知っていること”が評価されやすい。
資格、実績、情報量──
すべてが「どれだけ知っているか」で測られる世界です。
しかし老子は、真逆を言います。
「知らないことを恐れるな。」
むしろそれを認めることで、人は軽やかに生きられる。
- 無理に答えを出そうとしない
- わからないことを、わからないと言える
- 自分の小ささを恥じず、受け入れる
この“わからなさの余白”こそ、
創造力・柔軟性・人間的な深さを生むのです。
老子が言う「すばらしい」とは、
“知識の量”ではなく“心の透明さ”。
何も飾らない素直な心が、最も美しいのです。
「無知の知」は、メンタルヘルスにも通じる
老子のこの教えは、現代の心理学的にも非常に意味があります。
人がストレスを抱えるのは、
「知らないこと」を悪いことだと考えるからです。
- 完璧でなければならない
- 失敗してはいけない
- 何でも理解していなければならない
こうした“理想の自分”に縛られると、心はすぐに疲弊します。
しかし、老子はこう教えます。
「知らない」と認めれば、病は癒える。
つまり、完璧を手放すことが、最も健やかな心の状態なのです。
現代へのメッセージ
老子第71章の教えは、
情報があふれ、自己表現が求められる現代社会への静かな処方箋です。
- 知識よりも、気づきを。
- 答えよりも、問いを。
- 正しさよりも、誠実さを。
「知らない」という言葉を恐れず、
むしろ誇りをもって言える人が、本当に賢い人。
老子は、2500年前にすでにこう言っていました。
「知らないことを知る。それが、智慧の始まりである。」
まとめ
老子第71章の教えを要約すると:
- 「知らない」と知ることは智慧である
- 「知らないことを知らない」ことは心の病である
- 聖人は、自分の無知を認めるからこそ病まない
- 無知の自覚が、人を謙虚に、自由にする
- 知識よりも、心の柔軟さが真の知である
「知らないということを知るのは、すばらしい。」
老子が伝えたこの一言は、
知識社会に生きる私たちにとって、
**「足るを知る」**に続くもう一つの知恵──
**「知らぬを知る」**の哲学です。
