一個人として生きよ──新渡戸稲造『修養』に学ぶ、肩書きに縛られない自由な生き方
肩書きよりも「人」として生きる
新渡戸稲造は、『修養』の中でこう述べています。
「どんな職業についても、その職業独特の癖のようなものが自然とその人の言動に表れてくるものだ。」
この言葉には、人間が“職業に染まっていく”ことへの洞察が込められています。
教師には教師らしさがあり、商人には商人らしさがある。
しかし、それが行き過ぎると「一人の人間」よりも「職業人」としてしか生きられなくなってしまうのです。
たとえば——
- 医者である前に「人間」であることを忘れる医者
- 教師という役割の中でしか自分を語れない教師
- 会社員という肩書きを失うと、自分が空っぽになるビジネスパーソン
新渡戸は、そんな生き方に一石を投じます。
「私は私だ」という人格の独立
「しかし私は、人からどんな職業についている人間かはわかってもらえなくても、一人の確固たる人格をもった人間であると思われたい。」
新渡戸は、自らの職業や立場よりも「人格そのもの」を重んじました。
どんな職業にあっても、**「新渡戸稲造という一人の人間」**として生きることを選んだのです。
この思想は、まさに**“職業より人格を優先する生き方”**の表明です。
現代でいえば、「肩書きでなく人間性で見られたい」ということ。
社会の中でどんな立場にあっても、
他人の評価ではなく、自分の誠実さ・信念・人格で生きる。
それが新渡戸の求めた“修養の究極形”でした。
「私は私」──揺るがない自己を持つこと
「どれほどの名誉や恥辱を受けようが、私は私だ。」
この一文は、新渡戸の精神の強さを象徴しています。
名誉を得てもおごらず、恥を受けてもくじけない。
外の世界がどれほど変化しても、**自分の中心(人格)**が揺らがない。
この「私は私」という姿勢は、現代の私たちにも大きなヒントを与えてくれます。
- 周囲の期待に応えようと無理をしていないか
- 評価や称賛を基準に生きていないか
- 失敗や批判で自分の価値を見失っていないか
社会が変わっても、「自分の内にある価値」を信じて立てる人こそ、真に自由な人です。
「人を恨まず、天を恨まず」──人生を受け入れる心
「人を恨まず、天を恨まず、世間の評価など気にせず、どんな職業についていても、一人の人間として天を楽しみ、地を楽しみたい。」
新渡戸の言葉には、人生を丸ごと受け入れる達観が感じられます。
- 成功しても、運命を誇らず
- 失敗しても、人や環境を責めず
- 世間の目を気にせず、自然とともに心を整える
「天を楽しみ、地を楽しむ」とは、どんな境遇でも感謝と喜びをもって生きるということ。
職業や地位に一喜一憂せず、人間としての普遍的な幸福を感じ取る境地です。
これはまさに、「外的成功ではなく内的充実を追求する生き方」です。
社会の中でも「一個人」であり続ける難しさ
新渡戸がこの章で説いた理想は、簡単なことではありません。
社会に生きる以上、私たちはどうしても「役割」や「立場」に縛られてしまう。
しかし、彼は言います。
その中にいても、個人としての誠実さを失うな。
「誰かの役に立つこと」は素晴らしい。
けれども、その行動の根にあるのは「自分の人格」でなければならない。
自分の意思で考え、自分の信念に基づいて生きる。
それが「一個人として生きる」ということなのです。
現代に生きる私たちへのメッセージ
この新渡戸の言葉は、肩書き社会・評価社会の現代こそ響きます。
SNSのフォロワー数、会社での役職、学歴、年収──
人の価値が“外の数字”で測られがちな今、
「私は私」という独立した心を保つことは、とても難しい。
だからこそ、私たちは新渡戸の教えを思い出す必要があります。
「私はどんな職業であっても、一人の人間として天を楽しみ、地を楽しむ。」
社会的立場よりも、「人間としてどうあるか」。
その問いを持ち続けることが、
私たちが本当に“自由に生きる”ための第一歩なのです。
まとめ:職業の前に「人間」であれ
『修養』のこの章が伝えるメッセージは、次の3つに集約されます。
- 職業や肩書きは「役割」であって、「自分そのもの」ではない。
- 名誉や批判に左右されず、「私は私」と言える人格を持て。
- 天地を楽しみ、どんな環境でも感謝と誇りをもって生きよ。
つまり、新渡戸稲造のいう“修養”とは、社会の中にあっても独立した人格で生きること。
それが、彼の言う「一個人として生きよ」という言葉の真意です。
最後に
新渡戸稲造の言葉を現代風に言えば、こうなるでしょう。
「職業はあなたの一部にすぎない。
けれど、あなたの人格は、どんな肩書きよりも強い。」
人にどう見られるかではなく、
自分がどう生きたいかを基準にすること。
それこそが、社会に流されずに“自分らしく生きる”ための原点なのです。
