『定数削減10%の真実と、思考停止する政治の危うさ』
思考停止が生む政治の空白
国会という言論の府において、耳を疑うような答弁がなされた場面を想像してほしい。 「なぜ、衆議院議員の定数を10%削減するのか」という問いに対し、時の総理大臣がこう答えたとする。「連立を組む相手が、10%と言ったからだ」と。
この言葉の裏にある意味を、冷静に噛み砕いてみる必要がある。それはつまり、削減幅が5%であろうと、6.1234%という半端な数字であろうと、相手がそう望むなら何でも受け入れるという宣言に他ならない。無論、20%や50%といった非現実的な数字であれば拒否するだろうが、提示された「10%」という数字そのものに、国家としての主体的な根拠は何一つ存在していないということだ。
これを「思考停止」と呼ばずして、何と呼ぶべきだろうか。「連立の条件だったから」というのは、政治的な駆け引きの結果であって、国民に向けた議論ではない。一国のリーダーが語るべき「国家の設計図」が、そこには欠落しているといわざるを得ない。
数値の根拠なき削減論
そもそも、根本的な問いに立ち返らねばならない。なぜ今、日本は国会議員の定数を削減しなければならないのか。 世界各国のデータ、例えば列国議会同盟(IPU)の統計などを参照すれば、日本の人口あたりの議員数は、主要先進国と比較しても決して多い部類ではない。むしろ少ないとさえいえる状況だ。
それにもかかわらず、なぜ「削減」ありきで話が進むのか。そして、減らすとして、なぜ「10%」なのか。この二つの「なぜ」に対し、論理的かつ納得のいく説明ができている政治家が、果たしてどれだけいるだろうか。 現状を見る限り、その問いに答えられる者は皆無に近いだろう。なぜなら、そこには確固たる信念やデータに基づいた政策論争が存在しないからだ。あるのはただ、目前の政局を乗り切るための数合わせのみである。
「身を切る改革」というパフォーマンス
この削減案を主導した勢力の主張は、一見すると分かりやすい。「身を切る改革」という言葉は、確かに耳触りが良く、国民の溜飲を下げる効果があるだろう。自分たちの特権を削ってでも改革を断行するという姿勢は、大阪での成功体験に基づく政治的パフォーマンスとして、一定の支持を集めてきた。
彼らが選挙戦略としてそれを訴えること自体は、理解できなくもない。問題なのは、それを「是」として無批判に受け入れる政権与党の姿勢である。 本来、政権を担う政党であれば、「なぜ削減が必要なのか」「それが日本の民主主義にどう寄与するのか」を国民に説明する義務がある。党内にも異論がある中で、明確な論理もなしに「総務会での了承」という手続きだけで物事を進めてしまう。これは、責任ある政治の姿とは程遠い。
政治不信の正体
結局のところ、今回の定数削減法案が今国会で成立するかどうかは、時間切れの公算が大きいといわれている。そうなれば、連立の枠組みがどう変わるのか、政局の動きばかりが注目されることになるだろう。 しかし、私たち国民が見つめるべきは、そうした政局のドラマではない。
政治家に、常に100点満点の回答を求めているわけではない。完璧な人間など存在しないからだ。だが、少なくとも自らの発言や決定に対し、論理的な説明と責任を持つ姿勢がなければ、信頼関係など築けるはずがない。 「政局の優先」「説明の欠如」「責任の所在不明」。 この三つの要素が揃ってしまったとき、政治不信は決定的なものとなる。定数を減らすことの是非以前に、そのプロセスにおいて「なぜ」を語れない政治の在り方こそが、今の日本が抱える深刻な病理なのかもしれない。 もし削減を進めたいのであれば、それで構わない。ただ一つ、納得できる理由を、自分の言葉で語ってほしい。それが、民主主義における最低限の作法であるはずだ。
