「運がいい人」と「運が悪い人」の違いは、心にある――新渡戸稲造『人生雑感』に学ぶ“運を味方につける生き方”
「運」は出来事ではなく、“心の態度”である
新渡戸稲造は『人生雑感』の中で、こう述べています。
運とは外に表れた現象のことではなく、心の態度のことだ。
つまり、「運がいい」「運が悪い」というのは、
外側の出来事によって決まるものではなく、
それをどう受け止めるかという“心の反応”によって決まるということです。
人生で起こる出来事は、誰にでも良いことも悪いこともある。
しかし、その出来事を「チャンス」と見るか、「不運」と見るか――
それを決めているのは、自分の心なのです。
「何を不運といい、何を幸運というか」
新渡戸はさらに、こう問いかけます。
何を不運といい、何を幸運というか。石は災い、お金は幸いと決まったものではない。
この一文には、現代にも通じる深い洞察があります。
たとえば――
- 大金を得ても、心が貪欲に支配されれば不幸になる。
- 失敗しても、そこから学びを得られれば幸福になる。
つまり、「幸運」「不運」という言葉の本質は、外的な事実ではなく、内的な価値判断なのです。
石につまずいたことを「ついていない」と思う人もいれば、
「ここで転ばなかったおかげで事故を防げた」と思う人もいる。
同じ出来事でも、心の解釈ひとつで運命が変わる――
これこそが新渡戸稲造の「運の哲学」です。
「災いを幸いに変える」のは、心の力
新渡戸は最後にこう結びます。
何事につけても、災いを幸いに変えるのは、自分の心の態度によるのだ。
この言葉は、「運を待つな、つくれ」という強いメッセージでもあります。
災いを完全に避けることはできません。
しかし、それをどう受け取り、どう意味づけるかは自分次第。
- 不運を「人生の試練」と受け止める人は、前に進む力を得る。
- 不運を「自分のせい」と嘆く人は、心を閉ざしてしまう。
どんな出来事も、自分の解釈次第で「糧」にも「傷」にもなる。
この“変換力”こそが、人生における真の運なのです。
「運の良い人」が無意識にしている3つのこと
新渡戸の思想を現代的に応用すると、
“運の良い人”とは、実は次の3つの心の習慣を持つ人です。
① 起こったことを「意味ある出来事」として受け止める
偶然の出来事に「何かの学びがある」と考える人は、
常にポジティブな変化を見つけます。
② 他人や環境のせいにしない
不運を誰かのせいにせず、
「自分にできること」を考える人は、行動の自由を失いません。
③ 小さな喜びを見つける
「幸運」は劇的な出来事ではなく、
日常の中にある小さな“ありがたさ”の積み重ねです。
感謝の心が、人生の質を決めます。
「運」は“出来事の結果”ではなく“心の選択”
多くの人は「運が良ければ成功する」と考えがちです。
しかし、新渡戸稲造はその考えを逆転させます。
「心が良ければ、運が良くなる」
つまり、運とは結果ではなく“生き方の姿勢”なのです。
幸運を呼ぶのは、神や偶然ではなく、自分の心の方向。
悲観的な人は、チャンスの中にリスクを見つけ、
楽観的な人は、リスクの中にチャンスを見つける。
この違いが積み重なって、
「運がいい人」「運が悪い人」をつくっていくのです。
新渡戸の「運の哲学」は、希望の哲学
『人生雑感』の中で新渡戸は、
単なる運命論ではなく「希望を見つける力」を説いています。
彼の思想はこう言い換えることができます。
運とは、人生に対して“どんな態度を取るか”のことだ。
どんなに暗い出来事の中にも、
「これは私に何を教えているのだろう」と考えられる人は、
絶望の中にも意味を見いだし、前へ進める。
この考え方は、心理学でいう「リフレーミング(捉え直し)」にも通じています。
まさに新渡戸は、100年前にして“心の科学”の本質を見抜いていたのです。
現代へのメッセージ――「運は心の鏡」
現代では、SNSや情報社会の中で、
他人の幸運ばかりが目につく時代です。
しかし、他人の「運の良さ」をうらやむよりも、
自分の「心の持ち方」を整えるほうが、
はるかに確実に人生を変えます。
- 失敗を「経験」と見る
- 不運を「学び」と捉える
- 成功を「感謝」に変える
このような心の習慣を持つ人こそ、
本当の意味で「運のいい人」なのです。
まとめ:運は“出来事”ではなく、“心の姿勢”
新渡戸稲造の言葉「運は心の態度だ」は、
私たちの「運命観」を根本から変える一言です。
- 運とは、心の持ち方そのもの
- 災いを幸いに変えるのは、態度と解釈次第
- 幸運は“外”にあるのではなく、“内”から生まれる
運を待つのではなく、自分の心で運をつくる。
それが、新渡戸稲造の教える「人生を明るく照らす生き方」なのです。
