政治・経済

『ミダス王の死と「お金」の正体』

taka

黄金に呪われた王

ギリシャ神話のミダス王は、豊穣と酩酊の神ディオニソスから「触れるものすべてを黄金に変える力」を授かる。富こそ人間の幸福の源だと信じた王は、喜び勇んで木々や石を金に変えた。触れるだけで財が増える――この力を羨ましく思う人も多いだろう。しかし、やがてミダス王はその力が「死」を招くものであると気づく。パンも葡萄酒も黄金に変わり、食べることも飲むこともできなくなったのだ。

富を求めて失われるもの

ミダス王の悲劇は、やがて最愛の娘にまで及ぶ。王が娘を抱いた瞬間、彼女は黄金の像となった。王は自らの愚かさを悟り、「金持ちであることが惨めでもある」と嘆く。黄金は命を奪い、心を蝕んだ。富を絶対視する思想の行き着く先は、豊かさではなく荒廃である。この寓話は、お金を神聖視する現代人にも向けられた警告といえる。

お金は命を養えない

人はどれだけ莫大な金を持っていようとも、水や食料がなければ生きられない。お金そのものは食べられず、飲むこともできない。お金は「モノやサービスを交換するための道具」にすぎない。経済が成り立つのは、食料を作る農民、運ぶ人、道を造る人、船を造る人など、社会全体の供給能力があってこそである。ミダス王が黄金に囲まれながら飢えたように、供給が途絶えれば、金も宝石も無力な紙切れに変わる。

北斗の拳が描いた「お金の無力」

核戦争後の荒廃した世界を描く『北斗の拳』では、金も紙幣も価値を失っていた。「今じゃケツをふく紙にもなりゃしねえ」というセリフが象徴するように、モノやサービスの供給が絶たれた社会では、お金に意味がない。価値を生むのは「交換の相手」が存在する社会システムそのものなのだ。

経済力とは「供給する力」

多くの人が「経済力=お金の量」と考えるが、本質は違う。経済力とは「国民の需要を満たす供給能力」である。どれだけお金を持っていても、必要なモノやサービスを生み出す力がなければ、社会は機能しない。日本は世界最大の対外純資産国だが、それは単に金融資産が多いというだけの話。真の豊かさとは、誰もが必要なものを手に入れられる「供給の豊かさ」にこそ宿る。

黄金よりも価値あるもの

富やお金は、人間が生きるための手段にすぎない。モノやサービスを生産し、社会が循環することで初めて意味を持つ。ミダス王の物語は、私たちに問いかけている――「あなたの求める黄金は、本当に生を支えるものか?」と。

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ABOUT ME
TAKA
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理学療法士/ビール
理学療法士として臨床に携わりながら、リハビリ・運動学・生理学を中心に学びを整理し発信しています。心理学や自己啓発、読書からの気づきも取り入れ、専門職だけでなく一般の方にも役立つ知識を届けることを目指しています。
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