知の巨人すら誤解する「貨幣の正体」とは
知性だけでは解けない「お金」の謎
歴史に名を残す知の巨人たちであっても、時に致命的な間違いを犯すことがある。 『国家はなぜ衰退するのか』のアセモグルやロビンソン、そして『文明の生態史観』の梅棹忠雄。彼らの知性は疑いようもなく高い。しかし、こと「貨幣」の定義に関しては、残念ながら間違った認識を持っているといわざるを得ない。
彼らは判で押したように、貨幣を「血税」、つまり国民から吸い上げるべきものとして捉えてしまっている。これは根本的な誤解である。アダム・スミスが提唱した「商品貨幣論」の呪縛から、未だに抜け出せていないのだ。金貨や銀貨の価値は、その金属の重さにあるのではない。では、貨幣の正体とは一体何なのか。
国内における貨幣の本質は「貸借」
結論から言えば、貨幣とは「モノ」ではなく「貸借関係」そのものである。 国内という閉じた共同体の中において、貨幣は誰かが借金をした瞬間に「無」から創出される。貸し借りの記録こそが貨幣の本質なのだから、元手に物理的な実体など必要ないのは道理である。
「今年の支払いは、秋に収穫する栗で済ませよう」。 同じ共同体の仲間であれば、こうした約束、つまり信用取引だけで経済は回る。ここには金も銀も介在する必要はない。現代の我々が銀行預金という数字のデータだけで暮らしているのが、その何よりの証拠である。
なぜ歴史上、金銀が必要だったのか
だが、視点を「グローバルな交易」に移すと話はややこしくなる。 かつての歴史において、国境を越えた「貸借関係」は成立しなかったからだ。
想像してみてほしい。スパイス諸島にやってきたポルトガルの商人が、現地の住民に「ポルトガルの紙幣で払う」と言ったところで、通用するはずがない。「それは何だ? 紙屑か?」と怪しまれて終わりである。見知らぬ異国の商人が「後で払う」と言っても、誰も信用しない。
だからこそ、異なる共同体の間では、誰もが価値を認める「貴金属」を決済手段にするしかなかった。金や銀が貨幣として流通したのは、あくまで「信用のない相手」との取引だったからに過ぎない。
天動説から地動説への転換を
この「国内の信用貨幣」と「国際的な商品貨幣」の二重構造を理解せずに、人類史や文明史を語ることは不可能である。 しかし、多くの人々は、未だに「お金=貴金属のような貴重なモノ」という直感的な誤解の中に生きている。
貨幣観を正すことは、天動説から地動説へ移行するのと同等の、パラダイムシフトを要する。だが、正しい貨幣観なしに、正しい世界認識はあり得ない。我々は今こそ、古い常識を捨て去り、経済の地動説を受け入れるべき時がきているのである。
