「お金は社会からの預かりもの」――新渡戸稲造『自警録』に学ぶ、お金に支配されない生き方
お金は「自分のもの」ではなく「社会のもの」
新渡戸稲造は『自警録』の中で、次のように述べています。
お金は決して自分ひとりのものではない。それは社会共有のものである。
この言葉は、現代の消費社会に生きる私たちに強い警鐘を鳴らします。
お金を稼ぐと、人はつい「自分の力で得たもの」「自分の自由に使えるもの」と考えがちです。
しかし新渡戸は、お金を**社会との信頼関係の中で流通する“共有財”**と見ていました。
彼にとって、お金とは「社会から一時的に託された力」。
自分のためだけでなく、社会のためにどう使うかが問われるものなのです。
「預かりもの」としてのお金――所有ではなく、託されている感覚
新渡戸はさらにこう語ります。
たとえお金が自分の財布の中に入っていたとしても、それは一時的に社会から預かっているのにすぎないのだ。
この発想は、お金を「持つもの」から「扱うもの」へと視点を転換させます。
自分の財布にあるお金も、社会全体の経済循環の中で一時的に自分の手元に滞在しているだけ。
つまり、お金をどう使うかは、「社会から託された資源をどう活かすか」という責任ある選択行為なのです。
この考え方があれば、無駄遣いや見栄のための支出を自然と戒めることができます。
浪費を慎む理由――お金は人格を映す鏡
新渡戸はこう締めくくります。
つまり、お金というのは、社会からの依託金のようなものだ。むやみに浪費することは慎まなければならない。
お金の使い方は、その人の価値観と人格を如実に映し出します。
浪費とは、単なるお金の問題ではなく、心の向き先の問題です。
見栄や欲望のために使うのか。
誰かの役に立つために使うのか。
お金をどう動かすかによって、自分という人間の“方向性”が見えてくるのです。
だからこそ新渡戸は、「浪費を慎め」と言うのではなく、お金を尊く扱えと伝えています。
「お金=社会からの信頼」という視点
新渡戸の時代、日本はまだ資本主義の初期段階でした。
それでも彼は、お金の本質を「信頼の証」と見抜いていました。
お金は、働く人と社会の間の信頼関係によって成り立ちます。
給料をもらうのも、取引が成立するのも、「あなたの行為や仕事が社会の役に立っている」という信頼の結果です。
つまり、お金は**社会からの「感謝の形」**でもあるのです。
それをどう使うかで、再び社会との関係を築き直すことができる。
この循環を意識すれば、お金を持つことが「責任」であることが分かります。
現代に生きる新渡戸の金銭観
現代社会では、SNSや広告によって「もっと稼ぐ」「もっと持つ」ことが当然の価値のように語られます。
しかし、新渡戸稲造は100年以上前に、すでにこうした風潮を見抜いていました。
彼の教えは、単に「節約しろ」ということではありません。
むしろ、「お金を通して、どんな社会を作りたいのか」を問う思想です。
- 浪費を抑えるのは、貧しさではなく美徳。
- 他者のために使うのは、犠牲ではなく使命。
- お金を大切に扱うのは、自分と社会を尊重すること。
この考えを持つだけで、お金との関係は驚くほど穏やかになります。
お金の「流れ方」が人生を映す
新渡戸の思想を現代のライフスタイルに当てはめるなら、次の3つの実践がポイントです。
① 感謝して受け取る
収入は「自分の力の結果」ではなく、「社会からの信任」。
給与明細を見るたびに、その裏にある人々の働きを思い出す。
② 意識して使う
買い物や投資のたびに、「このお金は何を支えるか」を考える。
地元の商店や良心的な企業を選ぶのも、一つの社会貢献です。
③ 循環させる
貯め込むのではなく、必要なところに流す。
支援・寄付・教育・創造的な活動など、「社会に戻すお金」は、最も価値ある支出です。
まとめ:お金は信頼のバトン
新渡戸稲造の「お金は一時的な預かりものと思え」という言葉は、
私たちに“お金の向こう側”を見る目を与えてくれます。
- お金は自分の所有物ではなく、社会の資源
- それを託された者には、使い方の責任がある
- 浪費せず、他者と社会に還元することで真価が生まれる
お金を「自分のため」だけに使うと、そこで流れは止まります。
しかし「社会のため」に使うと、その流れは何倍にもなって戻ってくる。
お金とは、社会と自分をつなぐ信頼のバトンなのです。
新渡戸稲造が説いたように、今日からは財布を開くたびに、
「これは社会からの預かりもの」と心の中でそっとつぶやいてみましょう。
